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Ⅰ-4

 そうだ。証拠はない。  だがリュシアンには確信があり、主の声音には余裕がある。それが男がしでかしたことに対するなによりの証拠である。  そして男は、リュシアンが“わかっている”ことを“わかっている”。  男にとって愚行を暴かれること自体はさしたる問題ではない。むしろ、暴かれないことのほうが問題なのだ。  積み重ねられた愚行をリュシアンが『見て見ぬ振り』し続けたことこそが男の怒りの発端であり――この茶番のすべてだ。 「そもそも」  思わぬ近さで響いた声にリュシアンは驚き、振り向いた。  振り返る身体は広げた腕に抱き止められる。咄嗟に突き放した裸の胸の奥では鼓動が激しく踊っている。  男は愉しんでいる。 「矛盾していると思わないか」  呆然と立ち尽くすリュシアンの手を長い指が掬い上げ、口元へ運んだ。  リュシアンは動けない。立ち尽くしたまま、こちらの爪の先を甘噛みする白い前歯をただぼんやりと見つめるしかない。  指先に走る痺れるような痛みがやけに鮮明だった。触れる肌もほんの数時間前と同じく、熱い。  鼻先に漂う唾液の匂いが、男の胸に残ったざらりとした感触――おそらく昨夜のリュシアンのもの――が、見えているはずのものを覆い隠し、思考を鈍らせている。  男は続けた。 「いくら私でも、このクレールの家名を失うのは惜しいぞ。だが私は子を成せない身だ。この家に代々続く『呪い』を知っているだろう。クレールには、建国の王より直々に下された定め事がある。“クレールの領地領民を統べ、その名を戴く者は例外なく当代当主の血を引く実子であること”。ルネは傍系でもない、養子でもない、伯爵である父上の血を引いた子供だ。もはやあれ以外にこの家を守れる者は存在しない」  その大事な跡取りであるルネを危機に晒して私に何の得がある――――主は言う。  その言はもっともだ。むしろリュシアンの推論こそ大いに矛盾しているのだろう。  傍からみれば、兄が弟を害する道理などないのだ。慣例に従えばいずれは兄のものになるはずの伯爵領は、すべて弟であるルネに相続されることになっている。それらの文言はすでに書面に記され、然るべきところへ収められてもいる。  そもそも弟に爵位を譲ると決めたのは兄である。 「ここにあるものはいずれ、すべてがルネのものになる。それでも私が血を分けた弟を害する理由があるとでも?」  理由は――。 「あ……」  ――ある。あるのだ。  リュシアンは大きく胸を喘がせた。途端に男の匂いが強くなる。胸の奥で燃え盛る炎が肌を内側から炙り出す。  息を詰め、ふらつく足元を堪えた。  身体がまた“夜”を欲し始めていた。男の香りを吸い込んだからだ。蘇る快感の記憶が、染みついた触れ合う肌の心地よさが、もう一度その腕に抱かれてくれと内側から訴えかけてくる。  だが、 「理由なら、あります」  その腕に抱かれてしまえば、すべてが終わる。リュシアンはここで屈するわけにはいかない。  ぐ、と腕を伸ばす。身体が離れ、わずかに呼吸が楽になった。 「……たしかに、貴方のルネ様を思うお心に偽りはないのでしょう。お父上が愛妾に生ませた子とはいえ、貴方にとってルネ様はたったひとりの弟君。弟君を憐れむお気持ちは本物であったはず――ですが」  そう。  矛盾したところで関係ない。  破綻したところで、この男にとってそれはそれまでなのだ。  いくら慈しみが深くとも。いくらそこに肉親としての情があろうとも。  そんなものはどうでもいい。もはや、どうでもよくなっている。 「貴方は……それを捨て置きましたね」  男の欲望の前では、それらすべてが無意味だ。  倫理も道徳も、人の不幸も幸せも。この男の前にはすべてが嵐の海に漂う一葉の舟より心許ない。  これは遊びなのだ。男とリュシアンの間に幾度も繰り返される遊戯。  そこに賭けられるのはリュシアンの大切なもの。  男の意図に気づかない限り。男の望みを叶えない限り。犠牲は少しずつ増え続け、やがてリュシアンの周囲から大切なものがすべて奪われてしまう。  今回は、  ……ルネだ。  男の意図に気づかなかった――いや、気づかないふりをしたリュシアンが、ルネをこのおぞましい遊戯に引き込んだ。 「さすがに……いささか度が過ぎる」  呆れとも、恐れともつかない溜め息が漏れる。  男は目撃させようとしたのだろう。兄とその従者との、愛と欲と憎しみに彩られた情事を。  それを目にした幼い少年の心には、おそらく一生消えない疵が残る。  ただ想いを通わせる者同士の愛の語らいとはわけが違う。そんな生温いものではないのだ――自分たちの関係は。  いまはその意味を知り得なくても、いつか少年はその光景の意味をきっと理解する。  そしておそらく、そのおぞましい想い出はルネの人生を狂わせるだろう。  15歳であった主でさえ、見知らぬ男たちに犯されるリュシアンの姿を見、それ以来ひどく心を病んだのだ。それを受け入れる器が、わずか6つの少年の心にあろうはずもない。  だからこそ慎重に守ってきたつもりだった。主と従者の姿に隠された、欲に塗れた男たちの本性が露呈することがないように。  男もわかっていたはずだ。だから人前でリュシアンに触れることも、その鄙猥な性質を責める言葉も、これまでけっしてなかった。  しかし。  ――この男のなかでは、その境目すら消え失せようとしているのか。  原因は、 「お父上が邸を出られたから、ですか」  マリユス・ド・クレール伯爵が病を理由に隠棲し、邸から姿を消したからだ。  こちらを見下ろす目に、わずかに力がこもる。ようやく暗がりに慣れた目が、細められた紫の双眸を捉えた。

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