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Ⅰ-5
「隠居されてからは父上もずいぶんとお身体の具合が良さそうだぞ。路地裏で拾った混血児といえども23年間手塩にかけて育てたお前に身体を売らせていたことには、あの父でさえ多少なりとも罪の意識を負っていたのだろう。お前が稼いだ分、そして残りの借銀もきれいさっぱり私が返済してやったことだし、これからはお前のことも家のこともすべて忘れ、愛する女とふたり、のんびりと余生を過ごしていただきたいものだ」
伯爵の愛する女――10年連れ添った愛妾――マダム・ソフィーはルネの実の母親である。
ルネの存在は彼女の身近な者以外にはかたく秘され、少年は生まれてすぐ養育院へと預けられた。
マダムがクレールの『呪い』を知っていたという事実は、おそらくない。だが妾としての地位を望んだ段階で、彼女にもなんらかの誓約はあったのだろう。
それは――子を作らぬこと、そして正妻としての地位を望まぬことのふたつであったはずだ。
マリユスが彼女に語りかける。
子を作ったところで、その子は将来クレールの名を冠することすら許されない。
爵位、領地、領民を持たぬ貴族の庶子がいかに悲惨な末路を辿るか想像してみよ――ルネと同じように兄をもった祖先の生涯を例に、伯爵はルネの身を案じるふうを装って彼女を説得したに違いない。
なぜ他家とは違ってクレールのみ、そのような重い誓約が課されているのか。 それを頭の片隅でちらりと疑問に思ったところで、平民から生きるために娼婦となり、そして思いがけず由緒ある伯爵家の妾の地位を手に入れる寸前であった彼女がどちらを己の幸せと判断したのか、そう想像に難くない。
しかし彼女にも誤算はあった。
腹を痛めて生んだ我が子は、思いのほか愛おしかったのだ。
だから生まれてきた子供は捨てられず、そのまま養育院へと送られた――――ルネという名と、毎年いかばかりかの援助をつけられて。
彼女の庇護のおかげで――すなわちそれは皮肉にもクレールの庇護でもあったのだが――ルネは無事に6つの歳まで育ち、ついに半年前、実の兄によって見出された。
ルネが邸を訪れたときのマダムの顔を、リュシアンはいまでも鮮明に覚えている。
戸惑いと悔恨と、そして安堵と。
彼女もまたそのとき、主の“遊び”の駒のひとつだった。長年連れ添ったマリユスを見限り、今度はその息子に婚姻の話をちらつかされていたが、ルネの存在が明るみに出たことで次期伯爵の妻となる夢は見事に打ち砕かれた。
だが、そこにはたしかに母としての顔があったのである。兄に代わりルネがいずれ当主の座を継ぐとマリユスによって認められたとき、彼女はたしかに気の強そうな美しい顔に悦びの色を浮かべたのだ。
そして、マダム・ソフィーは妾でありながら次代のクレール伯爵の生母としてマリユスとともに邸を離れ、遠い地で静かに隠棲することとなった。
――混乱する。
あの一件でルネは母を取り戻し、父を得た。そして家と、将来の地位すら約束されたも同然となった。
マリユスは溺愛する息子が自らの跡を継げぬことを知り、その代わり、もうひとりの息子を得て御家のとりあえずの安泰を手に入れた。
結果的にはすべての人が僅かずつ不幸になっているものの、皆それとは別の幸福を手に入れた結果となったわけである。
こうして、すべてが主の意のままに進んでいく。
そのなかで、おそらくリュシアンの存在だけが儘ならない。だから彼はリュシアンに固執する。躍起になる。
そしてマリユスという大きな存在が姿を消したいま、おそらく彼の苛立ちは頂点に達している。
己を失い、すでに事の分別すらわからなくなるほどに。
「父上がいなくなったこの家で、もう私を咎める者など誰もいない。お前と抱き合う姿を使用人に見られようが、ルネに見られようが、かまいはしない。なんならお前に花嫁衣装を着せて街を練り歩いてみるか…………ああ、お前の髪が短いことだけが惜しまれる。持ち主に似ず、真っ直ぐで――素直な美しい黒髪だというのに」
耳にかかる髪を主の指が梳き上げる。
やはりそうだったのだ。主の暴走は父親の目がなくなったことに端を発していた。
「我々の関係を周囲の者に知らしめたいとお思いになるのであれば、別段ルネ様を巻き込む必要はなかったでしょう。男女の色恋も知らない幼子に、わたくしたちのなにがわかるというのです」
わたくしたちの、と殊更強調してみる。
燃え上がった思考は無理に止めようとすれば容易に決壊するだろう。ならばあとは彼の気持ちに寄り添い、これ以上誰にも被害の及ばぬ方へ導くしかない。
それには“正解”がいる。主が納得し、気を静めてくれる魔法の言葉が。
――探せ。それしか道はない。
飽くことなくリュシアンの髪を撫でる主の胸に、そっと頬を寄せる。
「そう、わからないどころか……夜のお世話に興味をもたれて邪魔をされては、このようにふたりで会うことすらままならなくなります」
貴方もそれは望まないはずです――――囁けば、主は低い声で笑った。
「リュシアン。お前は勘違いをしているぞ」
「……勘違い?」
主は訝しむリュシアンの顔を下から覗き込み、
「ぁ」
抱きしめた細い身体を、軽々と抱え上げた。
次の瞬間、リュシアンの身体は宙を舞う。あっという間の出来事に声すら出ない。視界が反転する。
予想したような衝撃はなかった。したたかに放り投げられた身体は柔らかな寝台に受け止められたが、その代わり、起き上がろうとした胸を重いなにかに叩きつけられ、一瞬息が止まった。
「っ……!」
手首を掴まれている。ぎ、と軋む骨に眉根を寄せると、上にのし掛かった主の膝に身体を割り開かれる。
「あの年頃の子供にどれほど無垢な幻想を抱いている? あれは意志と思考をもった立派な人間だ。己がなんであるか。自分と他人の立場の違いはどうか。それをこの半年で学び取った賢い子供だぞ。そして――」
「だ……」
「自己と他者の区別がつけば、子供でも恋くらいはする――――たとえこの行為の意味はわからなくともな」
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