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Ⅰ-6

 肌を打擲する乾いた音と、手のひらにじわりと感じる熱で、リュシアンは自分の手が主の頬を張ったのだと知った。  はじめて感じる痛みだった。これまでの人生で誰かに手を上げたことなどなかった。これほどあからさまに、これほど直接的に怒りを露わにしたことなどなかったのである。そしてそれはもちろん、主に対してなどもってのほかだった。 「も――」  ――申し訳ございません。  背筋が冷え、こめかみを汗が伝う。身体はすぐにでも起き上がり、跪いて暴挙に対する許しを請おうとしている。  だが――。 「何度申し上げればわかりますか」  震える声を抑え、リュシアンは言った。 「あの方はまだ十にも満たぬ子供です。そのように欲に塗れた感情など――たとえどなたかに恋をしたところで、まだ可愛らしいものでしょう」  顔は青ざめ、暗闇のなかでも色を失っているのがわかるほど、ひどく強張っている。  だが、リュシアンの勘は告げていた。手放しの謝罪は、ただ目の前の男の怒りを煽るだけだと。  現に主は、従者に撲たれた頬など毛ほども気にしてはいない様子で――むしろ撲たれたことを密かに悦ぶような顔で、リュシアンを見下ろしている。 「お前こそ何度言えばわかる。その姿も心も、お前のすべてが男を狂わせるのだと。それが子供でも同じだ。そもそも、私がお前を自分のものにすると決めたのは、いまのあれとそう変わらない歳だぞ」 「……なんですって?」  リュシアンは耳を疑った。  脳裏に浮かぶのは出会った頃の幼い主の姿だ。ちょうどいまのルネの背丈を少し大きくして、溢れんばかりに大きな瞳の色を紫にしてやれば、記憶のなかの幼い主が出来上がる。それほどまでに、この兄弟の顔貌は酷似している。  その頃、リュシアンは行儀見習いとして養子先に選ばれたヴァロー家から、従者となるべく邸へと上がってきたばかりだった。  顔を合わせた翌日から、リュシアンの姿を見つけるとすぐさま駆け寄ってきて、自身の教育係に引き離されるまでどこへなりとも付いてこようとした主。 『リュリュ』  無邪気な笑顔……。そこに、いまの主が言うような、邪な感情があったのだろうか。  ――ない。そんなもの、あるはずがない。  たかだか6つか7つだった主に、そんなものがあろうはずがない。いや、あったとしても、それをあんな子供の時分に自覚するはずがない。いくら聡い子であったとしても、それは無理というものだ。  疑問が顔に浮かんでいたのだろう。眉根を寄せるリュシアンを吐息のかかる近さで眺めると、主は、ふ、と口元に笑みを浮かべた。 「嘘だと思うのなら父上に聞いてみればいい。あの頃の私は父上によく訊ねたものだ。お前を妻として娶るにはどうすればいいかと。最初はにこにこと私を宥めていた父上も、しまいには忌々しいものを見るような目でこちらを眺めるようになった。思えば、あれが父上に初めて怒鳴られた瞬間だったな」  ぞっとした。冷たい指が膝裏をそっと這うような、妖しい悪寒があった。  まさか、男の執着心はあの時から続いていたのだろうか。  燃え上がった炎から生まれた灰が少しずつ地面に堆積していくように、淡い初恋に燻った火種から舞い上がった灰が、現在まで途切れることなく男の胸に積み重なってきたというのか。 「男とは結婚できないと知ると、メイドたちが噂していた腕の良い魔女とやらを探しに行かせた。妖しい呪術でも、お前か私、どちらかが女になれば夫婦になれると信じていたからだ。もちろん周囲の大人たちは私を適当にあしらって、それで終わりだったがな。どうだ――可愛いだろう、私は」  成長する過程で灰は現実という雨に打たれ、本来ならそこで綺麗さっぱり流されて消え失せるところを、むしろ湿り気を帯びて汚泥のようにこびりつき、心に凝って、もはや底すら見えなくなり――。 「なん、ですって」  リュシアンはもう一度呟いた。  目の前が揺れる。軋む寝台のかすかな揺れに合わせて、酩酊しているかのような浮遊感に包まれる。  恋、だというのか。あれが。  他者を傷つけ、自分を縛りつけて。  自分たち以外、誰も救われない罪深いこの関係を恋と呼ぶのか、この男は。  最初はたしかに物珍しさからくるリュシアンへの興味だったのだろう。リュシアンは当時から己の姿形が良くも悪くも人目を引くものだということを知っていたし、まだ汚れを知らない感受性豊かな子供が、初恋という形で己に憧憬にも似た感情を抱くことは理解できていた。  だが、それはあくまできっかけに過ぎなかったはずだ。  主が異常とも思えるほどの執着心をリュシアンに向け始めたのは、伯爵の命で男たちへ身を売っていると彼に知られた頃からだ。  同年代の子供より、おそらくさらに多感に育っていた少年が、兄のように慕っていた男のあられもない姿を見て、その健全な精神を歪めたのだ。そしてそれは“愛”という形をした憎悪となった。  その憎悪はリュシアンを縛りつけ、爛れた関係となって現在まで――。 「……その顔は、やはりなにもわかっていないようだな、リュリュ」  低い笑い声が聞こえる。だが、その声色はどこか自嘲めいたものを帯びていた。

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