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Ⅰ-7

「今回のこと……なぜルネを持ち出すまでお前が気づけなかったか、わかるか」  リュシアンは黙って首を振った。  暗にルネを担ぎ上げたことをほのめかす言葉も、主の“恋”という言葉に打ちのめされたリュシアンの耳には届いていない。  それは問いに対する答えというよりも、ただ眼前の恐怖から逃れようとしているかのように見える。  実際、リュシアンは恐れている。  迫る言葉も、手足を縫い止める強い力も。加減としては昨夜の情事の最中に与えられたものと同じはずなのに、いまはどうしてもそれが怖い。 「ならば教えてやろう。お前が気づかなかった理由。それは、お前がその“答え”がどういうものかを知らないからだ。知らないものは、いかに勘の良いお前といえども答えることはできないだろう?」 「――では、なぜわたくしにそれを問うたのです」  真綿で首を絞めるように、主の行動は少しずつ陰湿さを増していった。はじめから気づかないと思うものを問う方がおかしいのではないか。 「それほど特異なものなのですか、それは」 「いや」  主はわずかに首を傾げる。 「お前がそれを当然知っているものと思っていたから……とでも言うしかないな。お前がまったくこちらの意図に気づく気配のないことに私も疑問をもっていたが――まさかその存在すらお前の中になかったとは思いもしなかった。だが、ようやく今朝それを確信したよ。同時に納得もいった。しかし見事に裏切られた気分だ。ずいぶんと期待していたぶん、お前に対する失望も大きい」  ――失望。  それほどまでに自分はこの男を怒らせていたのか。  身体が震えた。  思わず逸らす視線を、顎を掴む手に引き戻される。  男は逃げるなと言った。 「だから今回は特別――」 「……特別?」 「特別に答えを教えてやる。私が望むこと、お前に求めること。すべて教えてやったうえで、お前がそれを実行できるのなら許してやってもいい」  これまでこちらの自主的な愛を試してきた男の、異例の言葉だった。  男は求め続けているはずなのだ。リュシアンが自ら男を愛し、心からすべてを捧げることを。  その男が今回はなぜか功を急いでいる――――ような気がする。 「よろしいのですか……それで」 「なに、このままではいっこうに埒があかないし、残念なことに私はそこまで気の長い性分じゃない。だからルネの傷つく姿を見て、お前がもしここへ戻ってきたときは、この選択肢をやろうと思っていた。さあ、どうする。私のことなどすべて知ってるというような保護者然とした態度を捨てて、素直に助言を聞くか。それとも、私の力など借りなくとも自分で答えを見つけてみせると息巻いてみせるか。もっとも、後者の場合は一生答えを見つけられずに、お前とその周囲の人間が不幸になる可能性も充分に考えられるわけだが――」 「教えてください」  迷う余地など微塵も存在しない。リュシアンは腕を伸ばし、裸の背に縋りつく。 「教えてください、旦那様。わたくしは一体なにを知ればいいのです。どうすれば貴方を満足させられるのです」  教えを請うことを恥とは思わない。もとより、はなから守るべき矜持などリュシアンは持ち得ないのだ。  跪き、許しを請えば、平穏な日々と男の愛が得られる。ならばなにを迷う必要がある。  この男以外に、奪われて惜しいものなど自分にはなにもない。 「旦那様」  急かすように熱い胸へと顔を擦りつければ、額に満足げな吐息が触れる。 「いいだろう。ならば、よく聞いて考えろ」 「はい」 「お前が知らないもの。それは」 「それは……」 「――恋、だ」  主の口から飛び出た“答え”は予想外のものだった。意外でも難解でもない。耳慣れた――むしろ、ついさきほど話題に上がったばかりの言葉――。 「……恋? 貴方はわたくしが恋を知らないとおっしゃるのですか?」 「ああ」 「まさか」  どっと全身から力が抜け、重い溜め息が漏れる。  恐怖に縮み上がり粉々に砕け散る寸前であったリュシアンの心を、湿った安堵の溜め息は見る間に修復していく。  同時に、重量を増した懸念にリュシアンは煩わしささえ感じた。 「納得いかないという顔だな」 「ええ。到底納得いたしかねます」  痺れた手足をのろのろと動かし、覆い被さる身体を押し退ける。  意外にも主の身体はあっさりと離れていく。 「……たしかにわたくしは貴方に抱かれるまで貴方をひとりの男とは見ていませんでした。幼い頃の貴方が私に懐いていたのはお忙しいお父上の代わりと思われているのだろうと……そしてわたくしも、貴方を主とするまでは兄のようにその成長を見守ろうと、そう思っておりましたから。ですからあの日、貴方に組み敷かれて驚きと戸惑いを覚えたのは事実です」  ですが、とリュシアンは語気を強める。 「貴方に想いを告げられたとき、わたくしははっきりと己の恋心を自覚いたしました。そして貴方を未来の主としてではなく、ひとりの男として受け入れた」  絶望のあまり噴き出した想い。泣き叫ぶようにそれを吐露しながら必死に自分を犯す少年を、たしかに自分は心から愛おしいと思ったのだ。  その腕に抱かれ、悔恨と愛の言葉を囁かれた瞬間、リュシアンの仕えるべき“少年”は“男”になった。  もともとすべてを捧げるつもりだった相手だ。身も心も繋げられることに悦びを感じないわけがない。むしろあの瞬間から愛しさは日に日に募り、いまでは男の存在はリュシアン自身を構築するすべてになっている。 「だいいち、何度も申し上げているでしょう。わたくしは貴方を愛している。誰にも渡したくないと強く願っている。だから貴方とマダムの婚姻も妨げようとした。従者の身でありながら、貴方を愛してるからこそ、あのような恥知らずな行為をしてしまった。貴方がわたくしに抱き続けた感情が恋なのだとしたら、わたくしのそれも恋であるはずでしょう」  もしそれすら恋でないというのなら、一体自分は昨夜誰に愛の言葉を囁いたのか。  問うと、男はリュシアンの前に雄々しい裸体を恥ずかしげもなく晒し、片膝を立てて肘をついた。視線はリュシアンの身体の隅々を這い、まるで値踏みするようにこちらを眺めている。 「そのようなくだらないことのために貴方はルネ様を巻き込んだのですね。そちらのほうが、わたくしにはよほど恐ろしい」  本当に、馬鹿馬鹿しい。  不貞を勘ぐられるのも、過去のおこないを責められるのも、もう慣れていた。  だがこの半年、リュシアンが真に男のものとなってからは、それこそ3日と空けずその身を委ね、互いの愛をたしかめてきたのだ。  本来ならばそれで満足するはずのところを、言うに事欠いて「恋ではない」などと。  ――あれほど好きにしておいて、どの口が。 「お前は私を愛している?」 「愛する方以外に、もう二度とこの身体を開いたりなどいたしません」 「だからルネを己の都合で危険に晒した私へ愛の鞭をくれてやったと。愛する私が人の道に悖る行為をしたことが許せず、つい手が出てしまったということか?」  主の頬を張った手のひらにかすかな痺れが蘇る。 「……あのような行為は旦那様の品位を損ないます。従者としてはけっして許されないことではありますが」  貴方を正しい道へ導くこと。それが変わらぬわたくしの愛です――。  痛む手を背に隠して二三度擦ると、男は、ふうん、と呟き、立てた膝に頬杖をついた。 「そうか。それで?」  顎を摘まみ、わずかに仰向いた顔から、すう、と紫の双眸が眼前のリュシアンを見下ろす。 「それで――とは」 「それで、いまお前が言った言動のどこに“恋”があった?」

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