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Ⅰ-8
お前がなにより私を大事に思っているのは知っている、と男は前置いたあとで、
「たしかにお前は私の婚姻を妨害した。まあ妨害したといっても、実際は私が妨害するように仕向けたところへお前がまんまと乗せられただけだったが……まあ、結果としてはおよそ満足している。旦那様を愛している、けっして離さないでくれと、熱烈な愛の言葉も寄越してくれたしな」
そう言って、立てる膝をおもむろに入れ替えた。
長い脚がリュシアンの前で踊る。衣擦れの音とともに入れ替えられた両脚の間、暗闇の中のさらに暗いところにある男の証がゆらりと揺れるのまではっきりと見えた。
「リュシアン。お前がここへ来て何年経った」
唐突に聞かれ、リュシアンは居住まいを正した。
どうやら男の話は本格的にリュシアンを諭すものへと変わったらしい。一度興が乗り始めるとどこまでも男の話が止まらないことは、これまでの経験からいやというほど知っていた。
それに、どのみちこの件に関してはいくら反論したところでリュシアンの言い分など男の耳に届きはしないのだ。
それならば大人しく話を聞いて、どうにか心の落とし処を男自身に見つけてもらうほかない。
この瞬間もルネは自室でふたりが来るのを待っている。男とルネ、どちらにも臍を曲げられてはたまらなかった。
「そうですね……ヴァローの養父母の元からマリユス様の従者見習いとして邸へ上がったのが12のときですから――かれこれ20年ほどになりますか」
リュシアンの養子先であるヴァロー家は代々クレールに仕える家である。
平民ではあるが、当主は代々クレールの邸へ雇い入れられ、初代の時世から庭仕事や御者といった下働きの下男として献身的に尽くしてきた。
クレールに仕えるヴァローの人間は幸せものよ――ヴァローの家へ預けられたその日、泥と埃にまみれたリュシアンの髪を丁寧に拭いながら養母は言った。
たしかに、これといって技能のない平民が子々孫々に至るまで貴族の屋敷へ取り立てられることなど、そうよくある話でもないだろう。クレールとヴァローにはなんらかの深い関わりがあるのかと養父へ訊ねたこともあったが、話を聞く限りそんなこともないようである。
我々の人となりを旦那様は気に入ってくださっているのだ――マリユスから下賜されたという安くもない酒をちびちびと舐めるように呑みながら、養父は夜ごとリュシアンに語った。
たしかにヴァローの家の者はことごとく穏やかな人であった。
ヴァロー夫妻にはすでに娘と息子がひとりずつあったが、娘のほうはマリユスの取りなしによってすでにとある地方の豪族へ嫁いでいた。
リュシアンにとっては義兄にあたる息子はいまもクレールの邸で庭師として働いている。こちらも妻を娶り、生まれた子は父親の助手として邸に雇われている。どちらも年が離れているのである。リュシアンに至っては、義兄よりもその息子とのほうが年齢が近い。
ヴァロー家の歴史のなかでもっとも出世したのはリュシアンだ。だが彼らは血の繋がらないリュシアンを一族の誇りと思い、いまでも実の兄弟のように親しく接してくれている。邸内で擦れ違えば、彼らは主とともにリュシアンへも敬意を示して膝を折る。
恵まれたのだ――と思う。
兄弟として育った月日はほとんどなかったが、こちらの出自や現在の境遇を考えれば、もっと憾まれ、蔑まれて然るべきだとも思う。
だから、たとえ従者として邸に召し上げられた理由が男たちへの奉仕のためだったとしても、それはそれでリュシアンにしかできなかったこと、リュシアンだからこそ与えられた使命なのだと……目の前の男には到底語れない感情も、リュシアンは持っていたのである。
「お前と初めて出会ったとき私は7つだった」
「ええ。とても可愛らしく利発そうなお子様でした」
出会いは衝撃的だった。
ルネと重ね合わせなければ、男との出会いはそれは美しく胸の高鳴るものだ。リュシアンは当時のことを生涯忘れることはない。
「“クレールに仕えるヴァローの者はしあわせ”。あのときほど母の言葉を噛みしめたことはありません。ヴァローの父と母は優しくはありましたが、礼儀作法には殊の外厳しかった。まあ、それが彼らに与えられた役割なのですから当然といえば当然なのですが……それまで生きるか死ぬか、食うや食わずの世界でドブに棲まうネズミのような暮らしをしていたわたくしにとって、それは少しばかり窮屈な生活ではあったのです。しかし旦那様と出会って、その苦労は一瞬のうちに報われた」
「お前は上品が服を着て歩いているような顔をしているが、その実、ずぼらでひどい不精者だからな」
「それを知るのも旦那様だけです」
ふと蘇った温かな気持ちのまま、ほんの少し情愛のこもった視線を送ってみる。
案外そういった何気ない愛情表現で男が満足してくれることもあるのだが――やはり今回は少しばかり様子が違うようだ。
男は向けられる視線を煩わしげに振り切ると、大げさに肩をすくめた。
「たかだか7つの子供にお前はなにをみた? 末は賢者かあるいは愚者か――お前の言うところの男女の色恋も知らない幼子に識者となり得る片鱗があるのか……そんなもの、誰であってもわかるものか」
「わたくしにはわかります。現に、貴方はわたくしの理想とする主となった」
「成長した――とでも言いたいのか? お前にとって都合の良いように私が育ったと?」
「それは極論です。わたくしは貴方の成長過程において、これまでなんら手心を加えたつもりはありません」
「私の性根と性癖はずいぶんと歪めてくれたがな」
リュシアンは苦虫を噛み潰したような顔になる。
「それについては……不可抗力かと」
「危険は承知だったのだろう。胸糞悪いからこれまで訊ねたこともなかったが」
胸糞悪い、と普段ならとても口にしないような暴言を吐く男に、
「私に出会って数年のちに、お前の男たちへの奉仕がはじまっただろう。私が気づいたときにはずいぶんと慣れた様子だったし、あれほど男を悦ばせる手管が一朝一夕で身についたとは思えない」
リュシアンはますます苦々しく眉根を寄せた。
どれほど――――どれほど長い時間、男はあの姿の自分を見ていたのだろう。
リュシアンのほうはまさかそんな場面を目撃されているとは知らないから、あの夜もいつもと同じように諾々と男たちの指示に従っていたはずだ。そもそも、初めて夜の相手を命じられたときですら、たいした拒否感はなかったのである。
それどころか、やはり自分が拾われたのには意味があったのだと安堵に近い思いすらもったのを覚えている。
「ところで。お前は私に抱かれ、私の気持ちを知ってもなお男たちへ身体を売り続けたな。それについてはどう弁明するつもりだ」
「……それが主の命令であれば、わたくしに拒否権はございません」
「本心では嫌がっていた?」
「もちろんです」
嘘だ。
男に自分の本性を知られても、当時のリュシアンに命令を拒絶する意志はなかった。
だが、リュシアンは逆らえないから逆らおうとしなかったのではない。
はなから逆らう気がなかったのだ。
恩があった。到底返せない恩が。
夜、食事を終えたマリユスに付き従い食堂をあとにする背中へ、粘つくような、いじらしいような視線が突き刺さったとしても。それを振り切れるほどの忠誠心がリュシアンにはあった。
父に隠れて思いの丈をぶつけてくる少年を憐れには思っても、ときおり黙って抱かれてやることくらいしかリュシアンにはできなかった。
しかし、少年もまた同じだ。
父親の庇護下にある少年は、口が裂けてもリュシアンを寄越せとは言えない。
マリユスは賢い男ではあったが、金を作ることだけは不得手だった。当時のクレールは『呪い』によってそれまで以上に重い税が課されていた。豊富な資源と実り豊かな大地はあるものの、それを金に換える知恵のないマリユスには、リュシアンこそがもっとも手っ取り早く金になる財産だったのである。
リュシアンはそれを知っていた。身に染みて、といってもいい。
仕えるべき家が傾くこと。それは将来仕えるべき主がいなくなるかもしれないということだ。
せっかく得られるであろう理想の主を、金がないなどとくだらない理由で失うわけにはいかない。
金など作ればいいのだ。
そして自分にそれができるのならば、リュシアンになにを躊躇う必要があっただろう。
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