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Ⅰ-9
「わたくしは間違ってなどいません。たとえ貴方を傷つけることになろうとも、貴方の側にいるためにはああする他なかった」
「そう。こうしてお前はまんまとすべてを手に入れたわけだ。揺るぎない従者としての地位。理想の主の寵愛。ほしいものすべてを手中に収めた」
――寵愛。
その言葉はリュシアンの心を甘く擽る。
「旦那様……」
「そう。私はお前の『旦那様』だ。お前にとってはそれ以下でも――それ以上でもない」
「――え?」
飼育だ――と男は言った。
「子供が犬や猫を飼うのと同じ。気に入りの動物を手元に置いて、好きなようにいじくり回してるだけだ。餌をやって、甲斐甲斐しく世話をしてやれば相手が幸せを感じると思い込んでいる。真実それが相手にとって一番の幸福かどうかは関係ない。絶対的な信頼を無償の愛と同義にして、気が向いたときには媚びを売り……用がなければいつまででも放置する。どうだ。お前が私にしていることと同じだろう。まさに子供の遊びだ」
遊び?
とんでもない。そのようなこと――。
リュシアンは口を開いた。鋭く短く息を吸い、
「――」
細く長い吐息を吐いた。出てきたのは、吐息だけだ。
……どうした。
どうしたんだ、わたしは。
呆けたように開いたままの唇を男の顔が覗き込む。笑っている。
「どうした。的を射すぎて反論の余地もないか」
まさか。
声が出ない。いますぐ否定しなければ。なのに。
胸の底に穴が開いたように、そこからするするとなにかがこぼれ落ちていく。
否定の言葉が流砂のように次々と漏れ出て行く。言葉が形を成さない。
満ちていた温かいものが。
長い時間をかけて――作り上げてきたものが。どんどんと。
代わりにそこから、冷たい男の吐息が吹き込んで。
――違う。違うのです。
「唯一、愛する者同士の証であるという交合さえ、お前は否定した。目的のためならば男に抱かれることすら甘んじて受け入れると言った。心の痛みはそれを否定するに値しないと。望んだ未来が手に入れば、負った傷もいつかは癒えると信じているんだろう」
――あれは、そういう意味では。
わたくしにはわかっています。貴方がどれほど傷ついていたのか。
いまでも、どれほどの怒りを抱えているのか。
それを……そんな。どうでも良いことのように思うわけが。
それを知っていながら、わたしは。
「お前は知らないだろう。お前が男たちに抱かれる夜、私がどんな気持ちでその背中を見送ったか。気づいていたか? 私はいつもあの使者のあとを追って、お前の部屋の近くに張りついていた。使者に連れられたお前が部屋を出、そしてどこの誰ともしれない男の残滓にまみれた姿で戻ってくるまで、ずっと待っていた。風のない夜、月の出ない夜になると、あの男たちはいつもどこからともなくやってくる。遠くから石畳を叩く車輪の音が近づいてくるんだ。そんな日はすぐにわかる。なにより、父上の様子がいつもとは違う」
苦しそうだ――。
「そういうとき、父上のほうがお前よりよほど心苦しそうだった。私が幼い時分お前にどういう思いを抱いていたか知っているからか……まあ、まさかあの歳になってまだ息子が従者に懸想しているとは思っていなかっただろうが」
「あ――」
ようやく掠れた音を喉奥から絞り出す。
全身が汗を刷いたようにじっとりと濡れている。
「あの者たちと貴方とは違います……わたくしは貴方に望んで抱かれて、」
は――。
返ってきたのは短く、凍った嘲笑だった。
「望んだ? 私の命に応えた、の間違いだろう。覚えていないのか? お前は一度も自分から私に“抱いてくれ”と言ったことはないぞ」
そのようなことは。
そんな、ことは。
……ない。
一度も。
ないのか。
でもそれは。
わたくしは、貴方の従者だから。
「そうだ。お前は一度だって自らの意志でこの部屋へ来たことはない。抱き合った日の翌朝も――目覚めればもう私の名を呼びもしない。『旦那様、旦那様』だ。当然だな、私は間違いなくお前の“旦那様”で、お前は別に私に触れたくてそこにいるわけではないのだから。お前は、ただ呼ばれたからそこにいるだけだ。脱げと言われたから服を脱いだ。脚を開けと言われたから開いた。部屋へ戻るな、隣にいろと言われるからそこで眠っているだけだ。従者としての忠誠心を表すために私に抱かれ、夜が明ければ私が“主”の仕事をこなすのを眺めてひとり悦に入る。それこそがお前の求めていた世界。お前が掲げていた理想だ。もしそこにお前が予想していなかったことがあるとすれば……そうだな。せいぜい、男どものせいですっかり猥りがましく目覚めてしまった己の身体を、都合良く主が慰めてくれることくらいか? さあ、わかったか。これがお前の正体だ」
そんなこと。
首を振る。実際はただふらふらと首が揺れるだけである。
否定にならない。否定の態を成さない。これでは。
「見ろ。いまだって」
男は腕を広げた。
暗がりに肢体が浮かび上がる。美しい肉体が見える。
「私の裸身を前に、お前は眉一つ動かさない。頬一つ染めやしない。私はこの瞬間も、お前のそのシャツの下に隠れた素肌へ触れたいと思っているのに」
湿った視線が胸の辺りを彷徨う気がした。
思わずシャツの裾を握ると、男は口の端だけを歪めて笑った。
「――いつも私だけだ。父上がいなくなったところで変わりはしない。お前はどんなときも私の従者で、私はどんなときもお前の主だ」
そう。
わたくしは貴方の従者で――
貴方はわたくしの、大切な。
「もう一度訊くぞ、リュシアン。お前は恋を知っているか。いつも誰かを目で追い、全身を耳にしてその声を拾う。ひとりになると切なくて、顔が見たくて、最後に相手に触れた感触を何度も何度も反芻する――そんな虚しい一人遊びで独り寝の夜を明かしたことがあるか」
「テ――」
唇を塞がれる。
「名は呼ばせない。取って付けたような機嫌取りに騙されるのはもうごめんだ」
左の手のひらでリュシアンの口を塞いだまま、男は言う。
「だから、答えを教えてやる。答えを聞いて、考えて、私を満足させろ。いいか。二度は言わない。よく聞け」
わたくしは、
貴方の――
「リュリュ。私は、お前と恋仲になりたい」
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