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Ⅱ-1
Ⅱ
木立を吹き抜ける風は冷たく、リュシアンの火照った頬を優しく撫でる。
森のすぐ向こうは山である。
内海に面した平坦な地形の多いこの国で、クレール領は比較的高地に位置している。
冬のあいだに山頂に積もった雪はこの時期になるとゆっくりと溶け出し、峰を下って森へと流れ込む。流れ込んだ水は岩肌を伝い、やがていくつもの小さな沢を作る。その沢が森に風を作るのだ。
上流から下流へ。淀みなく流れる雪解け水は木々の吐く芳醇な香りを森の外へと運び、やがてそれに吸い寄せられた動物たちがどこからともなく集まってくる。
静かな場所だ。夏は涼しく、冬は麗しい。
ここは主の気に入りの場所だった。
たしかに保養地としてはあまり相応しくない場所ではある。自然のままの道は目的地まで馬車が進めず、あまりの森の深さに狩りすら儘ならない。
しかし、それこそ主がここを愛する理由でもあった。
この森に設けた小屋は、いまは亡き主の生母リリアーヌが建てさせたものである。
マリユスの愛妾であるマダム・ソフィーが好んでそんな場所を訪れるわけもなく、マリユス自身も長いことここへは足を運んでいない。特に、老齢に差しかかり無理のできない身体になってからはなおさらだ。
そのため、いつしかここは主が好きなように使用できる別宅のようなものになっていた。
いくつか山を挟んでいるとはいえ国境に近い場所ではあるから、離れた場所に監視小屋があるものの、普段はその存在を感じるほどではない。
とにかく、人気がない。
夏の盛り――王都が蒸していよいよ過ごしにくくなる頃、主はよくこの場所を訪れる。普段はそつなくこなすご婦人方のお相手も、邸内では簡素な格好でくつろいでいるのをたびたび着替えて出迎えるのが面倒になるらしい。
ならばいっそ、と自らの暑さに弱い性質をよく知る父親に直訴して、夏のひとときをこの森で過ごすのが主の常だった。
――というのも実は建前で、主の思惑はもうひとつのところにあったといってもいい。
リュシアンが主の従者となる以前、主の世話をしていたのは老齢の従者長だった。彼はマリユスの幼少時代を知るという齢で、やはりこの道程は身体に障る。
これこそが主にとって良い口実となった。
彼の地で過ごす夏の間、身の回りの世話をする者は必要である。だが大勢で押し掛けたのでは気が安まらない。
それならば気心の知れたリュシアンをなどと、よからぬ提案をしたのがはじまりだ。
父親の罪悪感を最大限に利用してもぎ取った、愛する者と過ごす束の間の休息――と、そういってしまえば聞こえはいいのだが、実際、ゆっくりと静養できたのは主だけであって、当のリュシアンはひとりで主の世話と――連日の夜の相手に、ただただ疲労が溜まるばかりなのである。
――それも。
いまとなっては遠い昔のことのように感じられる。つい半年前までは当たり前の……いや、つい数刻前までは微笑ましい夏の風物詩、のようなものであったはずなのに。
その主――テオドール・ド・クレール子爵はいま、ちょうどリュシアンの少し前で馬を駆っている。
黒毛で脚の太い、丈夫な馬だ。
鬱蒼と茂る森の中を黒毛はゆっくりと進み、その前方を護衛の馬が、後ろをリュシアンの馬が追う。リュシアンから少し離れた場所では、こちらも護衛が3名、つかず離れずの距離でこちらの様子をうかがっていた。
前を走る馬上の後ろ姿は初夏らしい若草色の上着に、結った金の髪。
まっすぐ伸びた背中に揺れる髪が振り子のように少しずつ揺れを大きくし、やがてこちらも視線の隅で揺れていた黒毛のしっぽと同じ振れ幅になったところで――リュシアンの意識は引き戻された。
「あっ、なにかいる! おにいさま、あれはなに?」
目の前の背中から甲高いはしゃぎ声が聞こえる。
発したのは、馬車を降りてからテオドールに抱えられるようにして同乗してきたルネだろう。小さな伯爵子息は兄の腕に抱かれ、たいそうこの旅程を楽しんでいるようである。
「リスだ」
答える声も穏やかで、端から見れば仲の良い親子の会話に聞こえなくもない。
「リスは好奇心旺盛で、頭も良い。これから行く小屋に餌台を作っておけば、来年もまたお前に会いに来てくれるかもしれない」
「ほんとう? ボク、作りたい!」
「暴れるな、馬が驚く――――そうだな、私がお前くらいのときに作ったものがまだあるだろうから、それを修繕すれば……作り直してやれば、今日中にもできるだろう。手伝ってやる」
「わぁい」
黒毛がわずかに体躯を揺らした。宥めるようにテオドールの手が綱を引くと、馬は小さくいなないた。
穏やかだ。穏やかで、和やかな道程がテオドールとリュシアンのあいだにも存在するかのような……。
「ねぇ、リュシアン! リュシアンもリス見た? 茶色くておっきいの」
「ええ、もちろん。きっと良い餌台ができあがりますよ」
兄の腕に手を掛け、ルネが愛らしい笑顔を背後のリュシアンへ送る。身を乗り出す弟の肩を危なげなく引き戻すテオドールは――顔をちらりとも動かさない。無言である。
あの後――切なくも熱っぽい“恋の告白”を寄越したテオドールは、戸惑い、寝台の上に固まったままのリュシアンを尻目に、手早く身支度を始めたのである。
慌てて我に返ったときには、もう主は上着に袖を通すだけになっていた。
だが、そんな従者の不手際も彼は咎めることなく――むしろどこか嬉しそうにこちらをちらりと睨めつけただけで――早々に自室を出て行った。
玄関ではすでに待ちくたびれたルネが飾り椅子に腰掛け、船を漕いでいた。兄に優しく起こされると、慣れない早起きに半分瞑ったままの両目がいきいきと輝きだし、まだ準備に追われていたユーグを急かしての強行軍となったのである。
密かに準備万端であった主と、そのさらに前からこの小旅行を心待ちにしていたルネと――――どこか置いて行かれた気分になったのは、突然自らの想いに疑問を投げかけられ、これまで信じてきたものを粉々に打ち砕かれたリュシアンだけだった。
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