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Ⅱ-2

「ルネ様、とても楽しそうです」  小屋に着いて皆で軽めの昼食を摂ったあと、卓を拭く手を止めたユーグが窓の外を覗いて言った。  独り言のようなその声に、リュシアンも薪を積む手を止めて顔を上げる。  立ち上がって見えた窓の外には、小さな園芸用の庭にシャツ一枚で槌振るうテオドールの姿があった。隣には兄の脱いだ上着を手に持ったルネが、なにやら真剣な面持ちで兄の手元を覗き込んでいる。  どうやら兄弟は食後の休憩もそこそこに、さっそく道中話題にしていたリスの餌台作りへと取りかかっているらしかった。  テオドールがなにか指差すたび、ルネは狭い庭をちょろちょろと走り回っては、見つけたものを兄へ手渡している。抱えた上着を誰かに預けるかどこかに置くかすればいいものを、そこまで気が回らないのか、ぎゅうぎゅうに握りしめられた上着はリュシアンが窓越しに見ても皺だらけである。  額に滲む汗を拭う健気な姿に、従者ふたりの口元は綻んだ。 「ルネ様は……本来ならあのように外で自由にお暮らしになっていた方です。最近ではすっかりお元気になられて、遊び相手にも飢えていらっしゃるのでしょう。旦那様も、ルネ様が少しでも日々を楽しく過ごされるよう、いろいろとお考えなのですよ」  ユーグは焦げ茶の瞳を見開き、へぇ、と感嘆の声を上げた。 「旦那様のお小さい頃も、いまのルネ様のように活発でいらっしゃったのですか?」 「いいえ。あの方はとてもお身体が弱くて――内にこもりがちなお子様でしたね。他にご兄弟もいらっしゃいませんし、身体を使う遊びというものは、なかなかされる機会がなかったようです。あの餌台も、お母上がまだご存命の頃に作られたものだと聞いています」 「そうなんですか……」 「ですから、ルネ様のお世話をされているようで、実は旦那様が一番ああいった遊びを楽しまれているのかもしれません」 「はぁ。なんだか、あの旦那様からそういうお気持ちはとても想像つきませんねぇ…………あ、いえっ、別に変な意味などではなく! それにしても」  旦那様は小屋とおっしゃいましたが、ここは立派な別荘ですねぇ――と、軽口を叩きながらユーグは慌てて卓を拭く手を再開する。  リュシアンはあえて黙ったまま、ポットに注いだ水を火に掛けた。  ユーグの感想はもっともだと思う。リュシアンの言葉は、半分は願望なのだ。  そうであったら……と、リュシアンが思うだけである。  テオドールの世界は狭い。人心の掌握には長けているが、それらはすべて自らが生き抜くために習得した、いわば偽りの顔だ。  群がる女性と深い関係になるわけでもなく、唯一の肉親であった父親との確執も深い。テオドールは他人を信用しない。  その必要がないからだ。  誰かと心を交わすのも、誰かに情を抱くのも、すべてリュシアンひとりで事足りると考えている。 けっして裏切ることなく、無償の愛を与え続ける存在――テオドールがリュシアンに放った言葉は、そっくりそのままテオドール自身へと返る。愛情の循環。求めているものは違っていても、ふたりが互いを深く想い合っていることには違いない。  だがリュシアンは、打算も欲望も介入しない、ただ純粋に心を通わすことができる相手が主には必要だと思っている。それはルネであったり、ユーグであるかもしれない。  そんなリュシアンの老婆心こそがテオドールへの恋心を妨げているのだと、主は今朝、そう言いたかったのだろう。  リュシアンはたった一度だけ、それらすべてを投げ捨ててテオドールを求めたことがある。  我を忘れ、己の欲に突き動かされた狂乱の夜は、しかし、ルネの登場によってあっけなく幕を閉じた。  安堵してしまったのだろう。崖っぷちまで追い詰められていたところにルネという一筋の光明が現れ、リュシアンの闘争心にも似た焦りは跡形もなく霧散してしまった。 “ずいぶんと期待していた”……あの言葉が本音だとするならば、テオドールは、ルネがやってきたことによってリュシアンが自らの心のままに自分を求めるはずだと――そう思っていたのだろう。計算違いどころか、望む未来とは真逆の方向へ事態が進みはじめたというわけである。  ――怒るのも無理はない、か。  大切な主が少しでも心安けく過ごすこと、少しでも愛に溢れた豊かな人生を送ることを願う――そんな従者としては当たり前の感情を、テオドールは否定する。  お前にそんなことは求めていない。そう言われているようで、リュシアンの心中はますます複雑になる。  テオドールは自らの孤独を厭わないどころか、リュシアンにもそれを強要しているのだろう。  互いの世界を構成する要素が、自分とリュシアンだけになればいいと――本気で願っているのだ。 「恋とは……」  そういうものなのだろうか。  リュシアンには、わからない。 「……どうかなさいましたか、リュシアン様。切なそうな目でおふたりを見つめたりなさって」 「そんな目はしていません」 「えっ。あ、あぁ、でもどうなさったんです? 旦那様に、なにか?」 「……ええ。少し考え事を」 「旦那様のことで、ですか」 「そうですね。まあ」  ポットの蓋が音を立てて小さく跳ねた。 「あっ、そろそろ湯が沸きそうですよ。火傷に注意なさってください…………それにしても、お珍しいですねぇ。リュシアン様が旦那様のことで考え事だなんて」  立ち上る湯気が外から入り込む森の香りと混じり合い、ふくよかな木々の気配が部屋に満ちる。  ユーグの茶器を並べる音が、水気を含んだ空気に心地よく響いて耳を擽った。 「リュシアン様といえば、私ども使用人にとっては導きの大天使のようなものですからね。旦那様のお心のもっとも近くに寄り添い、あの方のすべてを知っている。旦那様の命令でなにを求められているかわからないときは、とりあえずリュシアン様に訊けと……半年前、教育係に着任したとき一番初めにメイド長に教えていただきましたよ」 「あなた方が過剰に私へ敬意を持って接するのには、そんな理由があったのですか」  問題である。  リュシアンはポットを火から下ろし、テーブルに置いた。 「いいですか。私はあなた方と同じ一使用人。いわば単なる同僚です。あなた方と同じようにお給金をいただき、クレール家と旦那様にお仕えしている身なのです。だいたい、いくら私といえども、旦那様についてすべてを把握しているわけではありません」  茶葉の缶を手に一瞬立ち止まり、ユーグはまたまたぁ、と含み笑いを浮かべる。

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