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Ⅱ-3
「リュシアン様は私たちとは違いますよぉ。なさっている仕事はたしかに変わらないのかもしれませんが、旦那様の信頼も私たちとはまったく――」
「そのようなことはありません」
手を止めたユーグの前に、リュシアンは邸から持参した菓子を並べる。子供好きのする乳製品の香り高い焼き菓子の数々はメイドが出掛けに持たせてくれたものである。
「旦那様はあなた方……いいえ、私も含め、すべての使用人を信頼していらっしゃいます。あの方の人を見る目は確かです。役に立つ者しか、旦那様はご自分のお側には置かれません」
そう。テオドールは人を“信用”せずとも、“信頼”はするのだ。
「この菓子も、すべてマリーが用意してくれました。私はお子様のお世話をさせていただいたことはありませんから、ルネ様のために菓子をなどとは思いつきもしなかった」
現在いる使用人はそのほとんどがマリユスが当主であった時代から雇われている者である。だが彼らは、けっして温情で雇われているわけではない。
マリユスもテオドールも、仕事に対して真摯に取り組まない者には露ほども容赦はしない。代わりに、彼らが使えると判断した者は――それこそリュシアンのように――路地裏からも拾われてくるのである。
「ですからあなた方は、己の能力を卑下してはいけない。自らの無能さを口にすることは、ひいては、あなた方を雇われた旦那様をこそ無能と呼ぶ行為に等しい。そう覚えておきなさい」
「は、はい!」
「――――と、ヴァローの父は口癖のように言っていました。私も、父と同じように思っています。さあ、ルネ様もお疲れのようですから、そろそろ一度休憩していただきましょうか」
「おかりなさいませ」
「ああ」
小屋へ戻ったテオドールの顔にはさすがに慣れない作業への疲労の色が滲んでいた。
一方のルネはまだまだ元気いっぱいの様子だ。上気した頬に満面の笑みを浮かべたままちらちらと背後を振り返るところをみると、その視線の先には兄とふたり協力して作り上げた努力の結晶がさっそく設置されているのだろう。
リュシアンはルネの肩越しに庭を覗いた。
植え込みの奥、高い木々の生い茂った葉陰から、ちょうどこの小屋をそのまま小さくしたような精緻な造りの餌台が見える。世辞を抜きにしても素人作りにしては上出来である。
「ずいぶん立派な餌台ができあがりましたね」
リュシアンの声にユーグも同じく庭を覗いた。
餌台を見つけると、予想をはるかに超えていたのか素直に感嘆の声を上げる。
「おお、ここからでもよく見えますねぇ。それにしても大きいですよ。あれならリスさんどころか、リスさんの家族もみんな一緒に住めますよ」
ユーグの言葉に振り返ったルネがなにかを思いついたのか、あっ、と声を上げた。
「どうなさいました?」
「あのね。リスさんにおうちができたこと、おしえないと」
「どのリスさんが住まわれるのか、もう決まっているのですか?」
「ううん、まだ。だからおしらせにいくの。おうちをさがしてるリスさんがいるかもしれないでしょ」
どうやら餌台へリスがやってくるのがよほど待ち遠しいらしい。そわそわと窓の外を眺めるルネへ、テオドールは汗に濡れたシャツを脱ぎながら、
「暗くならないうちに戻れ。そろそろ日が暮れる」
そう素っ気なく告げて部屋の奥へと歩き出した。
シャツを受け取るリュシアンは主の背を負いながら、その足りない言葉を補う。
「ルネ様、もうしばらくしたら御夕餐ですからね。昼と同じくここでは簡単なものしか作れませんが、熱いうちに揃っていただきましょう」
「はぁい」
言うが早いか、ルネは帰ったばかりの足で外へと駆けていく。
慌てて追いかけようとするユーグを、主の声が呼び止めた。
「クロードとディミトリを連れて行け。昨夜の雨で道が泥濘んでいる。転ばないように気をつけさせろ」
「はい」
「それと、あまり動物を追いかけ回すなと伝えておけ。寄ってくるものも来なくなるぞ」
騒々しいふたりがいなくなると小屋はしんと静まりかえる。つい先ほどまでそこにいたはずの護衛たちの気配さえない。
同伴した3人の護衛のうち、クロードとディミトリのふたりはルネたちとともに森の散策へと向かったため、小屋の周囲にはもうひとり、トマだけが残っているはずである。だが、そのトマも風呂の火を焚いたあと周囲の見回りにでも出掛けたのか、どこにも姿が見えない。
リュシアンは主のもとへと足を速めた。
小屋には、簡易ではあるが小さな浴場が設けてある。
大人ひとりがようやく身を沈められるほどの小さな浴槽を、カーテン一枚で仕切られた部屋へ置いてあるだけなのだが、この浴場は綺麗好きのテオドールが長じてからわざわざ森まで職人を招いて作らせたこだわりの一画で、背を流すくらいならば問題ないほどの広さがあった。
リュシアンは主の横をすり抜け、靴を脱いで素足になった。
カーテンを引き、主がやってくるのを待ったが、すぐに浴槽に浸かるとばかり思っていた主は、しかし、いつまで経っても動かない。
振り返ると、彼はリュシアンの背後に立ち尽くしたまま口をへの字に曲げて不機嫌そうに佇んでいた。
「どうかなさいましたか」
訊ねても返事はない。
リュシアンの胸を嫌な予感が過ぎる。
「……旦那様」
外には護衛がいる。ルネとユーグもいつ戻るかわからない。
いくら人の気配がないからといって――。
「ぬ……」
「ルネは」
突然主の口を突いて出た予想外の名前に、リュシアンは拒否の意を告げようと開きかけた口を慌てて噤んだ。
てっきり、“脱げ”と命じられるのだとばかり身構えていたため、思考は停止して、不自然に結ばれた口は返答もできないまま固まる。
結局、痺れを切らしたらしいテオドールが先に口を開いた。
「ルネは楽しんでいるようだ」
これもまたいつもの主らしくない、どこか窺うような口調である。
「……はい。それは、もう?」
つられてリュシアンの返す言葉も眼前に漂う湯気のように儚く揺らいだ。
こちらを見つめる紫の双眸はなにかを探るように眇められ、引き結ばれた唇はまるでリュシアンを糾弾しようとしているかのようだ。
だがルネに関して特に責められる覚えのないリュシアンは、意味深な視線を向けられてもただ曖昧に頷くことしかできない。
「今日1日、馬での移動に餌台作りにとずいぶんお疲れなのでしょうが、それすらお忘れになるほど旦那様とのご旅行を楽しんでいらっしゃるようで――」
「ならいい」
リュシアンの言葉を遮ると、テオドールは自ら洗い桶を手に取る。
「わたくしが」
慌てて手を伸ばすも、その手はするりと宙を掻いた。リュシアンは目の前で湯が流れ、広い背に金の髪が波打って揺れるのを呆然と見ているしかできなかった。
テオドールが長躯を浴槽に沈めると、押し出された湯が溢れて床とリュシアンの足とを濡らした。
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