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Ⅱ-4

 灯り取りから差し込む西陽は艶めかしく水面に反射している。ルネに言ったとおり、陽はすでに落ち始めているらしい。  リュシアンは戸惑う心を脇に押しやって、濡れた床へ膝をついた。日に灼けた肌を優しく洗い清める。  西日に輝く髪を梳き、爪に入り込んでいるであろう泥を流そうとテオドールの手をとったとき、ふと間近に見下ろす眉間に深い皺が寄った。 「失礼いたします」  驚いて握った手を引き上げる。主の右手親指の付け根がひどく擦り剥けて、赤く露出した傷跡が水にぬらぬらと光っている。 「なんです、これは」  背筋を刷毛で撫で上げられるような、ぞわぞわとした不快感が背中を這う。  テオドールは決まり悪そうに目を逸らし、小さく舌打ちをした。 「槌に擦れて剥けた」 「なぜすぐにわたくしを呼ばなかったのですか」 「お前を呼んだところで傷が治るのか」 「治療するなり誰かと代わるなり、なんとでもできたでしょう」 「これくらい普段の稽古でいくらでもできる。騒ぐほどの傷じゃない」 「充分騒ぐほどの傷です。こんな――」 「耳元で大きな声を出すな。この程度の傷、一度濡らせば痛みは消える。それくらいのことは剣を持たないお前でも知っているだろう」  煩わしげな表情にさすがに怒りが募る。  テオドールは“子供扱いするな”とばかりに手を振り払うが、その仕草が見ているこちらには痛々しい。  平素のテオドールなら、これほどの傷を黙って見過ごすわけがないのだ。  いくら小さな傷とはいえ、ひとつ間違えば致命傷にもなりかねない。些細な怪我から手足が腐り、命を落とすことさえある。  剣の扱いを知らないリュシアンでさえそれくらいは知っているのだから、馬術とともに剣の指南も受けるテオドールがそれを知らないわけがないのに。 「とにかく、いますぐ湯から上がってください。せめて消毒を」 「うるさい」  主は頑として動かない。そればかりか、額にかかる髪を傷めた手のひらでこれ見よがしに掻き上げ、ふう、と長い息を吐いた。 「……わかりました」  ――一体なにが、この男をこれほどまで頑なにするのか。  眉間に刻まれた皺は湯に浸かる前よりも幾分か和らいでいる。もう痛みはないという言葉は案外本当なのかもしれない。  仕方がないとリュシアンは内心溜め息を吐き、途中だった沐浴を再開した。  剥き出しの肩に手を触れる。  ほんの少し乾いた肌は、短いやり取りの間にずいぶんと冷えてしまっていた。  ――無力だ。  重い沈黙の中、黙って主の肌を清めていると気持ちが沈む。  こんなときいつもリュシアンは迷うのだ。  従者と情人。こうしてふたりきりで過ごす瞬間、どちらの顔を見せればいいのか。一度は突き放された提案を押し通すことが、いまのリュシアンにどの程度許されているのか。  主が望むいまの自分の姿は、どちらか。  これまではリュシアンなりにふたつの顔を使い分けてきたつもりだった。ふたりきりのとき、どんなに従者らしからぬ態度をとったところでテオドールはそれを責めたりはしなかった。  主といれば心が和む。ふたりきりなら、心が緩む。  心配のあまりその態度に口を出してしまうこともある。それは従者として主の身体を気遣ってのことであったり、リュシアン個人としてテオドールに望むことであったりする。どちらも主を思ってのことで、少しだけ歳を重ねているぶん正しいことだとリュシアン自身は信じている。  ルネのこともだ。  テオドールがルネを蔑ろにするのは耐えられない。テオドールがルネをぞんざいに扱うのは彼の本意ではない。主はただ、思い通りにならないリュシアンへの当てつけに、遣り場のない怒りを周囲へ撒き散らしているだけだ。  だから、これは防げる事故だ。  リュシアンがテオドールの心を受け止めれば。望むことを汲んで、叶えれば。  ――誰も傷つかずにすむ。私だって、彼だって。 “お前と恋仲になりたい。” 「……っ」  ふと蘇る声に、胸の中を甘い痺れが走る。頬が火照るのは間近に湯船を覗き込むからだけではない。  望まれているのだ。  失礼だと、無礼だと、そう思っているのはこちらの勝手な都合で、主がずっと待ち続けていたのはむしろ、そういう無礼なことこそなのだろう。  そう思えばなんら難しいことはない。  ない――と、思う。  テオドールの恋心を受け止めてやれるのはリュシアンだけだ。  そしてその役目をリュシアンは他の誰にも譲る気はない。  ――なぜなら、私自身がそれを望んでいるから。  執着されることを、縛り付けられることを誰よりも望んでいるのはリュシアンだ。その役目をテオドールへ与えたのも。  なにしろ、無自覚だったとはいえ男をこういう性質へと導いたのは他ならぬリュシアンなのだから。 「……ひとつ、よろしいですか」 「なんだ?」  うんざりとした顔と声でテオドールがこちらを仰ぐ。そんなあどけない仕草が……愛おしいと思う。この美しい男にこれほど邪険な扱いを受けて悦ぶのも自分くらいだとも思うが。 「ルネ様のこと――ありがとうございます」  テオドールは奇妙な顔をした。 「わたくしがこのようなことを貴方に申し上げるのはおかしなことだとわかっているのですが」  傷ついた右手を取り、痛々しい傷口のすぐ隣へ唇を寄せる。ぴくり、と跳ねる肩へはゆっくりと手を這わし、 「ルネ様のために貴方がこのようになるまで心を砕いてくださって……わたくしは嬉しい」  嘘偽りのない感謝の気持ちを言葉にすると、主は奇妙に歪めた顔をさらに歪めた。  濡れた口を開き、何かを言おうとして、また口を噤み、苦虫を噛み潰したような顔で低く呟く。 「別に、ルネのためじゃない」 「そこは“お前のためじゃない”、でしょう?」  笑い声を上げれば、握った手が振りほどかれた。

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