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Ⅱ-5

「お前のためだ」  そう言われて、リュシアンは曖昧に微笑むことしかできない。  わかっている。その言葉が嬉しくないわけでもない。  しかし一方で、やはりいまのテオドールの態度に戸惑っている自分がいることにも気づいている。  今朝から続くこのすっきりとしない気持ちは、きっと主から向けられる剥き出しの愛情によるものなのだ。  テオドールは傅かない。誰かに愛を囁くことも、愛を請うこともない。  なかったのだ。これまでは。彼は欲しいものはすべて力尽くで手に入れてきた。  ――わたくしのことだって。  それが、こうも素直に好意を向けられると調子が狂う。  いや、少し違う。調子が狂う、というよりも、もっと。もっとなにか。  ――胸騒ぎがする。  なにか……それは罪悪感を伴うような、居心地の悪い不快さだ。 「聞いているのか、リュシアン」  上の空で自分を見つめるリュシアンにテオドールは目を吊り上げた。  お前のために決まっているだろう、と語気を強めて、 「お前はルネがまだ“子供”だといったな。色恋も知らぬ単なる無邪気な幼子だと。だが私はお前があれに優しくするたび、お前の関心を引こうと必死だった頃の自分を思い出す」  苦々しげに吐き捨てる。 「貴方とルネ様は違います」 「それは嫌味か?」 「事実ですよ」  ルネには幼き日の兄の面影こそあるが、彼らの本質はまったく違う。  生まれ育った環境の差だろうか。母親の存在が稀薄だということは共通しているが、養育院に多くの兄弟をもつルネは他者との距離の測り方がやはり巧みだ。  彼は自分が他人からどう見えているか、無意識にだろうが理解している。無意識に自分が甘えることのできる限界を見極め、その対象すら自らで選ぶ。  もちろんそれが小賢しいことだとは思わない。彼らは最大限愛されるために存在するのだ。  一方テオドールといえば、父親は多忙、遊び相手にも恵まれず、世話をしてくれる使用人は多くいたが、誰かと対等な力関係を築けなかったぶん、やはり孤独な幼少期を過ごしたと言わざるを得ない。だから良くも悪くもテオドールの世界の中心はテオドール自身だったのだ。今も、昔も。  どちらかといえば、あの頃のテオドールよりもルネの方が子供らしい愛嬌に満ちていると思う。  だが、それでも。  貴方の方がずっと可愛らしかった――そう喉元まで出かかったのを、リュシアンは慌てて呑み込んだ。 「なにを笑ってる」 「申し訳ございません」 『リュリュ』  ふと耳の奥で小さな子供の声がする。聞き覚えてのある声だった。在りし日のテオドールのものだろう。 『リュリュ、今日は僕の部屋で寝る?』  昼間はほとんど顔を合わせない少年は、夜になるとよくリュシアンの姿を探して邸中を彷徨った。母を亡くしたばかりの息子を不憫に思ってか、マリユスはたびたび彼にリュシアンとの添い寝を許したから、いま考えれば3日に一度はテオドールの寝室で彼が寝入るまで付き添っていたはずである。  朝になってリュシアンの姿が見えない日は、彼は一日中しょんぼりと肩を落としていたものだ。  ただそれでも、彼は父親にもリュシアンにも、不平らしい不平を一切言わなかったのである。それほどかつてのテオドール少年は与えられた境遇に恭順的な少年だったのだ。――思えば、あれ以来なのではないだろうか。テオドールがこれほどまでに真っ直ぐな愛をリュシアンに求めるのは。  蝋燭の灯りに横顔を照らされ、穏やかな顔で眠る美しい少年。  細い蜜色の髪は豊かに波打ち、小さな手はしっかりとリュシアンの袖を掴んで――。 『目が覚めてもずっとここにいてね』  ――ちょうど、今朝と同じように。 「おい。髪を引くな」 「あ……」  無意識に握りしめていたらしい主の髪をリュシアンは慌てて手放した。  どうなら長いこと懐かしい記憶に浸っていたらしい。まだ頭がぼんやりとしている。 「申し訳――」  もう何度目かもわからない謝罪は、主の大げさな溜め息に掻き消された。 「謝罪はもう聞き飽きた。まったく、もっとこの状況に見合う気の利いた言葉のひとつも言えないのか?」  大きく伸びをし、欠伸をした。  豊かな髪が揺れる。  長じても色あせることのない蜜色の髪。あの頃と少しも変わらない。 「私はお前に好かれたいと言ったんだぞ。お前の希望どおりルネも楽しませてやった。その労いが感謝の言葉ひとつか? お前を好きだと言った人間に、お前が与えられるもっと素晴らしい報酬があるとは思わないか」  振り向く。瞳の奥が笑っている。  真っ直ぐな愛情。無邪気な声。 『ねえ、リュリュ』  ――――お前と、恋仲になりたい。 「……っ!」  ひゅうっ、と喉の奥に冷たい風が通り抜け、リュシアンは身体を折って何度も噎せた。  冷えたと思った肺に勢いよく入り込む湿った熱気が爆ぜるように胸から溢れ出す。 「おい」  水音が立った。肩を抱く手はテオドールだ。二の腕に濡れた感触がじんわりと広がった。触れる指先は温かいはずが、背筋はますますひんやりと凍る。 「なんだ。どうした」 「テ、オ」 「喋るな。立てるか」  覗き込む主の顔にリュシアンの影が落ちる。  濃い紫の瞳が黄昏時の甘い輝きを吸い込んで、深みを増した黒瞳には苦しそうに顔を歪めた自分の顔が映っていた。  リュシアンは頭を振った。  甘い匂いがする。洗い立ての髪の香り。  無垢な香りだ。無防備で、純粋な。  その奥に男の香りを探した。隆起した腕を撫で、素肌の腰を抱く。濡れた肌を擦り、唇を押し当てて。 「……て」 「肩に手を。濡れるのは我慢しろ。とりあえず寝台へ…………リュシアン?」 「――――抱いて……抱いてくださいテオドール。いますぐ」  頬に張りつく髪を掻き分け、戸惑うばかりの男の唇を塞いだ。

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