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Ⅱ-8
何度か腰を打ちつけられて、ようやく満足いったらしいテオドールの熱が抜け落ちる。
「掴まっていろ」
汗に濡れたシャツが剥がされる。自身もまだ呼吸の整わないなかでテオドールは素早くリュシアンの汚れた身体を清め、ローブを掛けた。激しい交わりと怒濤のような罪の意識に混乱するリュシアンがようやく思考を取り戻す頃には、彼は腰に布一枚を巻いた姿で浴場を出て行くところだった。
「テオ」
後ろ姿に声を掛ける。振り向いた顔は穏やかで、満足げに目を眇める主を見るとリュシアンはそれ以上なにも言えない。
「ルネが戻っているはずだ。ここへは近づいていないことを祈っておくといい」
途中から声を殺すことをすっかり失念していたリュシアンは顔を赤らめる。その様子を愉しそうに眺めると、ここにいろ、と言い残してテオドールは消えた。
――もし誰かに見られていたら。
ルネでなくとも、ユーグや、見張りから戻っているはずのトマ――関係を知られてはまずい人間はいくらでもいる。
主の言うとおり、ここは自分たちの関係を明るみに出してしまっても――などと一瞬頭を過ぎった考えをリュシアンは慌てて打ち消した。
知らない方がいい。知られない方がいいのだ。
そもそもこの気持ちは、主の抱く想いとは違うのだから。
胸を張ってこれが“恋”だと言えるのなら、自分は彼と共に茨の道を逝くだろう。だがその覚悟もないまま、ただ悪戯に誰かを傷つけることはきっと許されない。
それでもいつか――この気持ちが恋となり、自分の世界が彼だけに満たされるのなら。
「そのときは……」
あの温かな手を、取ることができるだろうか。
「――ただと!」
不意に外の騒がしさに気づき、リュシアンは顔を上げた。
部屋の奥でなにやら男たちが声を上げている。テオドールのものではない。ガウンの前を調えカーテンの隙間からそっと様子を窺うと、声は先ほどよりもはっきりとリュシアンの耳に届いた。どうやらトマと――ルネに付き添っていたはずのディミトリが言い争っているようだ。
「それでルネ様はいまどこに……!」
「待て」
ディミトリへと食って掛かるトマをテオドールが制する。ディミトリの肩を掴むトマはなにかを言いかけたが、主の声に一歩退いた。
「ディミトリ。ルネは間違いなく無事なんだな?」
「だが連れ去られたのだろう!」
「は、あの」
――連れ去られた?
「テオ!」
あられもない姿のまま飛び出したリュシアンにトマ、ディミトリの視線が固まる。
「リュシアン」
テオドールは従者の視界を塞ぐように立ちはだかった。
「落ち着け」
「連れ去られたというのはルネ様ですか! なぜこうも悠長に構えて――」
「いいから落ち着け。あれは無事だ。そうだな、ディミトリ」
「はい」
気まずそうに視線を彷徨わせていたディミトリが一礼し、その場に膝を折った。事の顛末を再度、慎重に言葉を選んで語り出す。
ルネとユーグ、そして護衛ふたりは暗くなり始めた森を館へと急いでいた。馬は連れていなかった。ルネが“リスさんが驚くから”とごねたためだ。
「陽が落ち始め、我々は慌てました。クロードが先に馬を取りに戻り、私はおふたりを伴って道を急いでいたのですが……」
薄闇にルネは怯えていたらしい。ユーグも気の大きな方ではないから、注意が散漫になっているようだった。彼らは寄り添うように進んでいた。
「馬の嘶きが聞こえましたので、クロードだと判断いたしました。ルネ様はひどくお疲れのご様子でしたから、すぐにでも馬に乗っていただこうと私が先に」
ディミトリは駆けた。後ろにはゆっくりと歩いてくるふたりの姿が見える。木立を抜け、近くにいるであろうクロードを探している途中――。
「背後で叫び声が聞こえたのです。シルベストル殿の声でした。私が慌てて引き返しますと、草むらに腕を伸ばした彼の姿が……」
ユーグは駆け戻ってくるディミトリを見、一言“落ちた”と叫んだ。
「昨夜の雨で沢の水が溢れていたのです。繁茂した水草に隠れて、水の縁がすぐそこの茂みまで迫っていました。ルネ様はぬかるみに足をとられて――」
「落ちたんだな」
「わたくしが付いていながら、申し訳ございません!」
「なぜ水音に気がつかなかった!」
俯くディミトリの隣でトマが叫ぶ。事の経緯を詳しく聞いて怒りが再燃したのだろう。ディミトリは年嵩の同僚の激昂に深々と項垂れるともう一度、申し訳ございません、と弱々しく声を震わせた。
リュシアンは彼を責められない。いや、責めたい気持ちももちろんあるのだが、過ぎてしまったことを言い始めればきりがない。
降り続いた雨のせいであちこちに隠れた水の道ができていただろうし、にわかに強くなった風と近くを流れる川の音で、よほどの濁流でもない限り水場の距離を推し量ることは難しかっただろう。
それに、ただでさえあの森は水の匂いが強い。目を離した隙に足を滑らせることも……ないことはない。
ディミトリもそのユーグの一言にすべてを察し、急いで彼らの元へ戻った。見ると、ルネの身体はすでに首元まで水に浸かっている。沢の相当な深さを予想したディミトリは手を伸ばしたが、ちょうどそこに生えていた巨木に邪魔をされ、充分踏ん張れるだけの足場を確保できなかった。
中に入るしかない。ルネの体力を考えれば、とりあえず彼ひとりでも岸に上げることが先決だ。ディミトリが上着を脱ぎ、ルネの手をけっして離さないよう言い置いたところで――。
「そこへ、かの方が現れました」
“子供の手をこちらへ”。
その男はいつの間にかそこへ立っていたのだという。夏だというのに冬物の服を着込み、ずいぶんと背の高い男は、長い身体に見合った長い腕をユーグの背後から伸ばした。彼は被っていた帽子をかなぐり捨てると、その痩身のどこにそれほどの力があるのかと思うほどの力強さで一気にルネの身体を持ち上げたのだという。
「陸に上がられたルネ様は顔色も悪く、よく見るとこめかみのあたりから軽い出血が見られました。助かった途端に、安堵したのでしょう、激しく泣き叫ばれて……」
男はその後の処置も素早かった。暴れるルネの服を脱がし他に傷がないことをたしかめると、自ら上着を脱いでルネに着せた。
「あの方はルネ様をご自分のお邸へ連れ帰るとおっしゃいました。そのときクロードも合流しましたので、我々はすぐにでもこちらへ戻るつもりだったのですが、あの方が“額の傷が気になるから”と。話をうかがいますと、あちらはお医者様を同道しておられるらしく、邸で一度様子をみた方がよいのではないかと」
「それが連れ去られた――ということですか」
リュシアンはほっと胸を撫で下ろす。とりあえずルネが無事だということは本当らしい。だが。
「その男が不届き者ではないという根拠はあるのか!」
「はい。それはシルベストル殿が、よく見れば見知った顔だとおっしゃったものですから」
「見知った?」
終始無言で話を聞いていたテオドールが初めて口を開く。ディミトリは恐縮した様子で、はあ、と答えた。
「シルベストル殿がおっしゃるには、どうも――ド・アルマン公爵閣下ではないかと」
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