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Ⅱ-9
「ド・アルマン……公爵がなぜクレール領に?」
振り向いた先のテオドールは。
目を閉じ、眉根に深く皺を刻んでいる。組んだ腕の指先をわずかに震わせている姿が何か思い悩んでいるようにも、何かを必死に耐えているようにも見えた。
――なにを考えている?
いや、なにを考える必要がある。こうしている間にもルネは心細い思いをしているというのに。
リュシアンの心はすでにルネの元にあった。あの小さな胸を不安で満たし、傷の痛みにひとりで耐えているのだろうと思うと、一刻も早く兄の顔を見せ、安堵させてやりたかった。
「旦那様」
見かねて声を掛ければ、気怠げな視線がようやく前を向く。
「……ああ」
だがその視線はリュシアンの知る限りもっとも鈍く、重い。
2階の居室へ行き、主の身支度を済ませる。階下ではふたり分の靴音が忙しなく行き来していた。階上へ向かう際、主はトマとディミトリ、それぞれに何事かを指示していたようだったが、主に先んじて部屋へと駆け上がっていたリュシアンの耳には、指示の中身までは届かなかった。
「旦那様」
両の袖飾りを整えている途中、控えめなノックと呼び声が居室の扉を叩いた。ディミトリである。
「馬の用意ができました。すぐにでも出立できます」
「トマは」
「そろそろ見回りを終えて戻る頃です」
「わかった」
最後にズボンの裾をきつく締め直す。扉を開けると、ちょうどトマが戻っていた。
「周囲に人影はありません」
短い報告のあと、主のトマの間に含みのある視線が交わされる。
「そうか。では」
テオドールが振り返る。リュシアンは荷物の中から簡単な服を見繕い、直ちに支度を始めようとして――。
「リュシアン。お前は残れ」
無情にも、目の前で扉が閉まるのを見た。
「旦那様!」
力の限り扉を叩いた。だが必死の抵抗も虚しく、あっさりと扉は施錠される。いくら把手を回そうともびくともしない。外側からの錠に加えて、閂までもがかけられたようだった。
「お待ちください、旦那様!」
「すみません、リュシアン様。旦那様のご命令です」
扉の向こうからトマの声がした。鍵を掛けたのは彼であるらしい。あの意味深長な視線は、おそらく手順を確認していたのだろう。
リュシアンをこの部屋へ監禁する手順を。
「安心してください。旦那様がお留守の間、貴方は私がしっかりと守ります」
守る? 私を?
首筋がカッと怒りに燃える。
「私は従者だ。主を守りこそすれ、誰かに守られる覚えなど……!」
「体調が優れないのだとうかがいました。先ほども旦那様の沐浴中に倒れられたとか。それでそのようなお姿だったのですね。しかし旦那様は、貴方はルネ様のために無理を押しても出るだろうと……」
「旦那様は!」
「いま館を出られました。大丈夫です、ディミトリが付いていますから。すぐにルネ様を連れて戻られますよ」
「……!」
――この世話焼きめ!
悪態を吐きそうになるのをすんでの所で堪えた。トマは護衛としても一流だが、忠義心に厚いあまり少々熱くなりすぎるところがある。だが、それは紛うことなき彼の美徳のひとつだ。彼は職務に忠実であるだけであって、けっして責められるべきではない。
無理を承知でもう一度扉を叩いてみる。ドン、と鈍い音がした。人の気配がする。扉は施錠されたうえに見張られてもいるらしい。リュシアンが落ち着くまで扉の前から動かないと決めているのだろう。
「くそ……」
ふらふらと覚束ない足取りでその場を離れ、リュシアンは寝台へ倒れ込んだ。柔らかな寝具に目眩を誘われ、瞼を閉じる。
――置いていかれた。それも護衛まで付けられて。
窓の外の暗闇から、かすかに話し声が聞こえた。急いで飛び起き、窓を開こうとするものの、そこが嵌め殺しの硝子窓であることを思い出して諦めた。
そうこうするうちに松明の灯りが黒い森の奥へと消えた。
月が煌々と森を照らしている。小さな光はしばらく木立の間を縫ってちらちらと姿を見せていたが、やがてそれも見えなくなった。
「テオ――」
そこにいない人の名を呼んでみる。
なぜ。
なぜ私を。
屈辱で頭が灼けそうだ。
心配している? この身は、それ程までに頼りないというのか。
離れず付いてこいと言われれば、そう出来るほどの体力はある。度重なる酷使でたしかに身体はあちこち痛むが、ルネのことを思えば夜の森を駆けることすら苦ではない。
なにより、それほど脆弱ではないのだ、この身体は。
「それを、こんな……!」
彼の“愛”は、リュシアンが従者であろうとすることすら許さないのだろうか。
恋仲になれ。愛されろ。
それは、これまでのリュシアンを捨て、ただ守り慈しまれる存在になれということか。
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