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Ⅲ
「あの方はダルマン卿ですよ。間違いありません」
各々がしばしの仮眠をとり、クレールの邸に向かって館を出立したのが、その日の昼過ぎ。
傷の痛みと不規則な睡眠のせいでぐずるルネを森の出口で馬車へ乗せ、一行が邸へ戻ったのは深夜に差しかかろうとする頃だった。
短いようで長い――不穏な旅をようやく終えたあと、リュシアンはルネの居室から出てきたユーグを廊下で捉まえた。
少し話をいいですか、といつになく真剣な語り口のリュシアンに、ユーグは赤く腫れた両目を瞬かせ、頷いた。
ルネを危険に晒したことを諫められるのだとでも思ったのだろう、リュシアンの自室へ通されたユーグは、勧められたカナペに座り盛大に肩を落としていたが、
「昨夜、あなた方がお会いしたのは、本当にド・アルマン公爵なのですか」
そんなリュシアンからの意外な質問に、目を丸くして答えたのである。
「リュシアン様は我々一族の家業をご存じですよね」
「もちろん」
ようやく緊張が解けたのか、目の前で盛んに湯気を立てている紅茶を一口啜ったユーグは、その愛嬌ある焦げ茶の瞳に誇りを滲ませ、輝かせた。
「シルベストルの家は代々貴族……ときに王に連なる方々へ教育を施す役割を担っています。私の祖父は現国王の家庭教師でしたし、一番上の兄はノエル第二王子殿下の教育係を務めました。僭越ながら私も、ルネ様にお仕えする以前はバシュレ侯爵家で教師をしていたのです」
「ええ。たしか、いまバシュレ家は――」
「ある問題に巻き込まれて、結果、爵位を返上されました。御一家は今頃どこか新しい地で、穏やかに暮らしてらっしゃると思います」
「そうですか……それはお気の毒に」
リュシアンは侯爵家を襲った不幸に思いを馳せる。部外者であるリュシアンにはかの一家に起こったことの詳細はわからないが、ユーグの苦渋に満ちた表情から察するに、なにがしかの避けられない出来事があったのだろう。
「いいえ。部外者の私が口を出すことではないんですが、あれでよかったんだと思います。家族が幸せであることに爵位は関係のないことでしょうから」
「……そうですね」
私もそう思いますと答えれば、若い教育係の顔に昨日ぶりの笑顔が戻る。
「とはいえ、バシュレは歴史ある御家ですから、私も何度か御一家に連れられて王宮を出入りしたことがあるんです」
「そのとき、卿にお目にかかったと?」
「はい。あれは……そうだなぁ、3年ほど前になりますか。ちょうどダルマン卿ご成婚の年ですよ。サロンで閣下から直接お声を掛けていただきまして」
我が家に生まれた子に、ぜひシルベストルの教育を――公爵自らそう言われ、ユーグは、ぜひ、と答えたという。
「光栄なことです。なにせ、相手は3代前までは王の系譜に名を連ねる大貴族ですから。たしか現在のダルマン当主……ルネ様を救ってくださった、ええと、ジャン・グレゴワール・ド・アルマン卿――ですね。あの方も、奥方様はいまの陛下の又従姉妹にあたられる方のはずですよ」
その件はリュシアンも知っていた。あれはテオドールの数少ない友人であるセシャン子爵がテオドールを訪ねた際、何気なく口にしていた話であったと記憶している。
貴族が王族と婚姻を結ぶ――血統を重んじるこの国においては、さほど珍しいことではない。
「そうなると……なぜあのような辺鄙な場所に公爵閣下がおいでになったのか、ますます理解できませんね。たしかあの森に一番近い他領は――」
「それが、バシュレなんです」
「バシュレ……? 本当なのですか」
聞き返したリュシアンにユーグは眉根を寄せ、奇妙な表情を見せた。
「私もびっくりしましたよ。なにせ、ルネ様を抱えたダルマン卿が真っ直ぐ向かったのが、かつてバシュレの所有していた別宅だったのですから」
一瞬自分の目を疑いました、と肩を竦める。
「思ったよりバシュレ領とクレール領の一部が近かったのです。いえ、近いというよりほとんど接していると言っていい。森を抜けて開けた場所に着いたと思ったら、そこに突然見覚えある邸の外観が現れたのですから、私も驚いて思わずダルマン卿へ詰め寄ってしまいましたよ」
「彼はなんと?」
「陛下から賜ったのだそうです。バシュレ家が爵位を返上した際、その土地や資産、一切をダルマンが譲り受けたと」
「馬鹿な」
ユーグの言は俄には信じられないものだった。
貴族の所有する土地、資財はすべて元を正せば王のものだ。バシュレがどのような形で没落したのかは不明だが、残った資産を丸ごと他家に譲るなど、リュシアンの知る限り前例がない。
「ド・アルマンが直接買い取った、ではなく?」
「ええ。陛下を介してだとおっしゃいましたよ。もっとも、管理を任せてくれと申し出たのはダルマン卿の方らしいです。公爵は陛下と縁戚にあたる方ですから、もともと信頼はされているのでしょうけど」
「……そうですか」
ジャン・グレゴワール・ド・アルマンは、当代随一の忠臣であるという。はっと人目を引く長身と、名君であった先王を彷彿とさせる穏やかな物腰。
彼が、いわゆる幼馴染みであった現在の夫人と結ばれた際、そのとき宮廷のご婦人方の人気を二分していたテオドールへ婚儀の申し込みが殺到したというまことしやかな噂まである。
婚約してからは一切の愛人を作らず、また次の王の側近と目されていながら、その心根に微塵も野心が感じられない。
そんなところも陛下に可愛がられる理由なのでしょうか、とユーグが首を傾げた。
「そうそう、あの方がクレール側の森にいらっしゃった理由ですが、どうも鹿狩りの最中に迷い込まれたようですよ。クレール領は狩猟が禁じられてますから、動物たちが森中から集まってくるのだとか……本当ですか?」
「それは考えられますね。マリユス様も旦那様も、慰みで狩りはなさいませんから」
ユーグの聞いた話がすべて真実だとすれば、ド・アルマン卿の存在は偶然の産物だということになる。
それならば。
テオドールの不可解な態度の硬質化は、ド・アルマン卿との個人的な確執にあるのだろうか。
――それは少々考えにくい、か。
両家ともそれぞれ王室と深い関わりのある家だが、実際のところ、それほど接点はない。
クレールはテオドールが生まれるはるか以前から“呪い”を受けてきた、いわば“鼻つまみ者の貴族”である。一方のド・アルマンは、どこをとっても文句のつけどころのない正真正銘の大貴族だ。
テオドールとジャン・グレゴワール、ふたりが長じてからは、その容姿の美しさや地領の豊かさ、将来性など様々な観点から比較されたこともあったというが、テオドールにしてみればそもそも、かの男と張り合う必要がどこにもない。
やはりこの違和感自体、リュシアンの気のせいなのだろうか。
「それにしても、リュシアン様はさすがですねぇ」
緊張からすっかり解き放たれたらしいユーグは普段の調子を取り戻し、行儀悪く、うん、と伸びをした。
「私が……なんです?」
「いえね、公爵がおっしゃったんですよ。“今日は、あの美しい従者どのはいらっしゃらないのか”と。あれほど身分の高い方をして“美しい”と言わしめる従者など、リュシアン様以外にそうそういませんよ」
それは――。
「なにかの間違いでしょう。私はそのようなご身分の方にお会いしたことはありません。第一、私は王宮に上がったことすらないのですから」
リュシアンは王宮に足を踏み入れたことは一度もない。当然、公爵と面識があろうはずがなかった。
マリユスの時代から混血の、そもそも奴隷の血を引くリュシアンが王の傍へ近寄ることなど許されておらず、それはテオドールの代になった現在も変わっていない。
「旦那様が王宮へ上がられるあいだ、私は常にここで留守をしています」
「そうなんですか? それにしてはずいぶんとご存じのようでしたよ。その、リュシアン様のことを。ええと“月の夜、波打ち際に濡れ光る一粒の黒真珠”、だったかな」
「……なんですか、それは」
「公爵がリュシアン様のお姿を初めてご覧になったときのご感想、だそうですよ。白い肌に艶やかな黒髪が映えて、それはそれは美しい御仁だと……ああ、こうもおっしゃってましたね。“貴婦人の涙に濡れそぼつ、黒い金剛石”」
耳にするだに風邪を引きそうな美辞麗句だと、リュシアンは眉を顰める。
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