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Ⅲ-2

「黒髪など珍しくもないでしょうに。奥方の他に愛人を作らないというわりには、公爵もずいぶんとくだらない軽口がお好きなようですね」 「それが奥方様もその場にいらっしゃって、ダルマン卿のお話を楽しそうに聞いてらっしゃっるんですよ。『そんなにお美しい方なら、わたくしもぜひこの目で見てみたいわ』と」 「それは仲睦まじいことですね」  呆れる間に考える。  夫人が自分を見たことがないというのなら、ますます公爵がリュシアンを目にする機会は限られてくる。  テオドールに連れられてサロンやその他社交場へ出向く機会もないではないが、やはり侯爵以上の付き合いとなると気を遣うぶん、リュシアンの記憶も鮮明だ。彼ほど目立つ人間ならば、その場にいるだけで何かしらの情報が耳に入るだろう。  結局、ユーグから得られた情報はそれだけだ。  ジャン・グレゴワール・ド・アルマンの姿はまだ、リュシアンの目には見えない。 「疲れているところをお呼び立てしてすみませんでした。あとのことは私に任せて、あなたはゆっくり休んでください」  見送りに扉を開けたリュシアンが声を掛けると、ユーグは恐縮して首を振った。 「そうはいきません。リュシアン様もお疲れでしょうし」 「私はあなた方と違って、あちらでゆっくりと休ませていただきましたから」  答えれば、テオドールの嘘を信じているらしいユーグは素直に頷く。 「本当に申し訳ありませんでした。お仕えする方をお守りできないなんて、私は従者としても失格ですね」 「これから……」  これからはしっかりとあの方を守って――。  言いかけて、はたと言葉を呑んだ。  主の傍に居ながら主を守れなかった彼と、傍に居ることすら許されなかった自分。  従者として失格なのはどちらだと、リュシアンはひっそり自嘲する。 「……あなたがルネ様のお側に仕える者として相応しいかどうか。それをお決めになるのはルネ様です。ダルマンのお邸から戻ったとき、目覚めたルネ様は真っ先にあなたの姿を探していた。少なくともあなたはあの方の信頼を得ている……私はそう思いますよ」  素直な感想に、わずかに羨望の気持ちを乗せた。 「二度とこのようなことがないよう、しっかりと気持ちを引き締めてあの方をお守りします」  一礼したユーグが、どこか晴れやかな表情で去って行く。  押し殺した跫音がすっかり聞こえなくなると、ふと湿った風が頬を撫でるのに気がついた。  月明かりに照らされた回廊はすべて窓が閉め切られているから、おそらくその風は角を曲がった先――中庭の方吹き込んでくるのだろう。  不用心だった。  自室に戻る前に気づけなかった己を叱咤し、手燭も持たずに部屋を出ると。 「……ああ」  扉の前に残っていた“痕跡”に、知らず溜め息が漏れた。 「お休みにならないのですか」  探した姿は回廊の外――中庭のベンチに腰掛けていた。  振り返った男の顔は冴え冴えとした月光に照らされて青白く、回廊から姿を現したリュシアンを認めたなお、冷ややかな眼差しを向けるだけである。 「よくここがわかったな」  平板な声音で発せられた言葉は、邸へ戻ってから初めて男がリュシアンに掛けた言葉だ。  ずいぶんと久しぶりに聞いたようなその声に、どこか懐かしささえ覚えた。 「扉が少し開いていました。あと……匂いが」  扉の前に貴方の残り香がありました――そう答えるリュシアンに、男はしばし目を伏せ、やがて何か思い当たったように目を瞠った。 「あらためて他人の口から聞くと、まるで犬かなにかのようだな」  以前自分が放った言葉をほぼそのまま返された形のテオドールが小さく笑う。 「眠れませんか」  邸に戻ればじき主の機嫌も治る――治れば、向かい合って話ができるだろう――そう思っていたリュシアンの思惑は外れていた。  リュシアンはようやくはっきりと形を成した憤懣を胸に抱えたまま、こちらを見ようともしない主を余所に、少しずつ見えてきた違和感の正体をひとり探していたのだ。  ジャン・グレゴワール・ド・アルマン卿の存在について。 「誰かがいつまで経っても戻らず、あろうことか部屋に男を連れ込んでいる現場をこの目で見てしまったからな。傷心を癒やすために、こうして静かな庭でひとり月光浴と洒落込んでいる」 「戻るもなにも、わたくしの部屋はこちらです」  夏の夜の湿った風は、ふたりのあいだに流れるぎこちない空気さえ淡く滲ませるようだった。  気安さに誘われてベンチへ近づくと、男はわずかに視線をこちらへ向ける。 「少し話をしても?」 「話なら寝台の上で、寝物語ついでにじっくり聞いてやる」 「連れ込んだ男と何を話していたのか……ご自分の寝台の上でお聞きになりたいのなら、わたくしはかまいませんが」  立ち上がりかけたガウンの肩へ手を触れる。 「……手短に話せ。ここは冷える」  そう言ってテオドールが空けたわずかな隙間にリュシアンは腰掛けた。  風が男の髪を薙いで、辿ってきた香りが頬を撫でる。  軽い沈黙の隙間を縫って耳に届く、涼しげな水場の音。  何にも邪魔されず穏やかな気持ちでこの場にいられるのなら、どれだけ愛おしい時間を過ごせただろう。  ――だが、きっとそうはならない。  一見穏やかに流れていく時間の底に、黒く、濁ったどす黒いものが横たわっているのがわかる。  不穏で、不吉で、不快ななにか。  リュシアンにはまだぼんやりとしか見えないそれを、この男の目は捉えている。 「昨夜、旦那様はわたくしを残してルネ様の元へ向かわれました」 「あの状態のお前が、夜の森を逝くには足手まといだと判断したからだ」 「体調に問題はなかったはずです」 「顔色を見て『私が』判断した」 「それは『主として』のご判断でしょうか」 「そうだ」  不意討ちに目の前で扉が閉ざされた瞬間。燃えるような怒りの記憶が炎のようにちらちらと胸を嘗めた。  荒ぶる息を喉奥に押し込んで、言葉を紡ぐ。

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