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Ⅲ-3

「公爵について、ユーグから話を聞きました」  答えはない。深く腰掛けたベンチに身体を預け、両脚を軽く投げ出したまま、庭の奥、遠く黒いひとつの塊となって風に蠢くバラの生け垣をじっと眺めている。  リュシアンはかまわず続ける。 「ルネ様を大変手厚く扱ってくださったのでしょう。すぐに処置したおかげで、痕も残らないと聞きました。正直、我々だけでは今ほど迅速に対応できなかった。感謝すべきはダルマン卿の機転の良さです」  ルネの診断を医師に任せたのは最善だった。それはテオドールもわかっているはずだ。  現に彼は相当の時間をかけてルネの様子を見極めていた。医師の指示を仰ぎ、真にルネの無事が確認できるまで、慎重に。  その慎重なテオドールが、リュシアンを謀ってまで館へ閉じ込めたかった理由。  それが、あのド・アルマン卿にあることはあきらかだ。  覚えている。ルネの事故を聞いたとき。その後、名も知らぬ男に連れ去られたと報告を受けたとき。  リュシアンですら取り乱しかけたところを、テオドールはひとり静観し、事態をいち早く把握した。  その彼がもっとも取り乱した瞬間――それは。 「そういえば、ダルマン卿はわたくしのことをご存じのようですね」  その名を口にしたとき、隣り合う肩がかすかに揺れた。  ――やはりそうか。  いまのテオドールが取り憑かれているもの。  間違いなく、ジャン・グレゴワール・ド・アルマン卿だ。  ユーグの話を聞いたときから若干の違和感は感じていた。  数時間。熱も下がり小康状態に落ち着いたルネが目を覚ますのを待つあいだ、彼らは短くはない会話を交わした。  その会話にはリュシアンへの惜しみない讃辞も含まれていたという。  それをテオドールが黙って聞いていたという事実こそが、最初の違和感の正体だろう。  リュシアンの話題を他人と共有する。平素の彼ならばあり得ない。  彼はリュシアンの名が他人の口から出ることすらひどく厭う。機嫌を損ねるか、話題を変えるか、とにかくリュシアンが知る限り相手が誰であろうとその話題を避ける。  それが、今回に限って例外だった理由。  相手があのド・アルマンだからなのか。  もはやテオドールの変化にド・アルマン卿が関わり合っていることは明白である。  あとは彼と公爵のあいだに、一体どんな関わり合いがあるのか。それを知ることができれば……。  リュシアンはきわどい賭に出る。  テオドールを揺さぶる、もっとも効果的な方法。それは。  ――怒りによって、男の牙城を崩すことだ。 「それにしても、おかしな話ですね。わたくしはあの方にお目にかかったことは一度もありません。もし…………昔、私とあの方が本当は出会っていて、私の方がそれを知らなければ、ですが」  ひどく見え透いた挑発だった。だが、これはほんの触りだ。彼の様子を見るためのはじめの一手のつもりだった。  リュシアンの秘すべき過去。テオドールがもっとも嫌うその話題の登場人物にド・アルマン公爵が登場しようはずもない。まず年齢が合わない。リュシアンの記憶がたしかならば、かの男はテオドールといくらも年が離れていないはずである。  さすがに乗りはしないだろうと次の手を考えるリュシアンの横顔を、しかし、ふとゾッとするほど冷えた視線が撫でた。  最初、こめかみに痛いほどの意志を感じた。意志はやがて熱となり、たしかにこちらの顔を嫌悪でもって灼きはじめる。  ゆっくりと振り向く。と。  月光を背にして黒く塗り潰された顔から、獣のような瞳が覗いていた。 「リュシアン」 「は――」  息を詰め、視線の意味を考えている途中で、テオドールはおもむろに腰を上げた。 「部屋に戻れ。いますぐ」  戻れ。  それは――どちらの部屋だ。  戸惑う腕を、ぐ、と掴まれ、強引に回廊へと戻される。押し向けられたのはリュシアンの自室がある方角である。 「明日から私がいいと言うまで部屋を出るな。誰も部屋に入れるな」  それだけ言うと、テオドールは踵を返そうとした。リュシアンは慌ててその手を掴む。 「待って」  挑発によって彼が露わにした怒り。それが意味するもの。  それはもはや、肯定しているのと同じなのではないか。  主のこの態度はリュシアンがもっとも懸念していることと……リュシアンの過去と何らかの関わりがあるのではないのか。 「お願いですから待ってください」  脳裏に忌々しい記憶が蘇る。  暗い廊下。静かな夜。  煌々と月が輝く以外は、こんな夜が『あの男たち』の現れる夜だった。  ジャン・グレゴワール・ド・アルマン。  もし、その中に彼がいたとしたら。  そしてそれをテオドールが知っているのなら。  リュシアンはかつて自分を陵辱した男たちを知らない。知ろうとも思わない。  擦れ違ったところでわからないだろう。彼らは一様に仮面を被り、身分を明かすようなものはすべて取り去っていた。彼らは共にリュシアンを犯した人間さえ、どこの誰なのかも知らない様子だった。  テオドールはそれを知った? 偶然か、あるいは――。 「やはり、そうなのですか?」 「“そう”とは?」 「その、かの方が、かつて私を……」  答えに怯えて穏やかな水の音にさえ掻き消されそうなその問いは、 「何のことだ」  予想とは違う男の反応を引き出した。 「ですから……!」  言いかけて、余計なことだとリュシアンは口を噤む。向き合う男の声音は真に困惑を含んでいる。リュシアンの質問の意図を汲みかねているようにも見える。  ――違う、のか。  彼はリュシアンを犯した男たちのひとり、ではないというのか。  ほっと胸を撫で下ろした反面、では一体テオドールの様子の変化をもたらした原因は何なのかと、ますます疑問が湧く。  テオドールがなにかに腹を立てているのは間違いない。それはもはや憎悪にも近い、賢いこの男が己を見失うほどの怒りだ。ド・アルマンに対する究極の悪意。  だが一向に、その怒りをもたらすものの姿だけが見えない。

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