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Ⅲ-4
「おしゃべりは済んだか? 終わったのならさっさと部屋に戻れ」
腰を抱かれ、蹌踉めきながらも歩き出す。静まりかえった回廊には慌ただしい跫音が響いた。
テオドールは明らかに急いていた。時折躓くリュシアンの肩を抱きながら、長い脚で容赦なく廊下を進んでいく。
「入れ」
目の前に一条の淡い光が現れる。いつの間にか自室の前まで来ていたらしい。慣れない歩幅で歩いてきたからか、見慣れたはずの扉がまるで見覚えのないもののように感じられた。
これからこの薄暗い部屋に放り込まれるのだと思うと、怒りよりも先に心細さが立った。つい先ほど男たちによる陵辱の夜を脳裏に思い描いたがゆえに、その心細さは暗い恐怖と絶望をともなってリュシアンの胸へ去来する。
おそらく、しばらくは外に出られないだろう。少なくともテオドールの懸念が完全に払拭されるまでは。
そしてリュシアンは、その懸念が一体なんであるのかさえ知らされないまま、事の終わりをじっと待つしかないのだろう。
たったひとり、この部屋で。
「いつまでここにいれば?」
把手を掴む右手に浅く刻まれた傷。つい昨日まで続いていた穏やかな時の名残にそっと触れれば、痛みが引いたはずの大きな手が小さく跳ねた。
「……そう長くはかからない。交代で見張りを置く。用があれば付き添わせる」
「そうですか。もう、わたくしを騙すおつもりすらないのですね」
「騙す?」
「騙したでしょう。この体を気遣うふりをして」
「まだそんなことを?」
「旦那様が隠し事をなさるからです」
「だから、気のせいだと言っている。もう行くぞ」
そう言って踵を返す主の袖を、リュシアンはそっと引く。
「もう少しだけ話を」
ここでならゆっくりできるでしょう――視線に願いを込めて見上げると、テオドールはしばらく目を閉じ何かを考えたあとで、リュシアンを部屋へ押し入れた。自身も素早く中へ入り扉を閉め、入り口を塞ぐように扉へ寄りかかる。
先ほどまでユーグが腰掛けていた長椅子へはリュシアンが腰掛けた。
テーブルに残された茶器からほんのり漂う香りを押し退けるように強い男の香りが鼻先を掠めると、ざわついた心がほんの少し凪ぐような気がした。
そのテオドールはいつの間にか扉の前から移動し、いくつもある窓をひとつひとつ見て回っている。
平素はリュシアンがあまり部屋にいないからか、彼がカーテンを引くたびうっすらと埃が舞った。引いたカーテンの隙間から、テオドールは深い闇の奥を目を凝らして眺めている。
「外になにか?」
「いや」
声を掛けるとテオドールはすべてのカーテンを隙間なくきっちりと閉め、扉の前へ戻った。
「この部屋はこんなにも森が近かったか」
「ちょうど旦那様のお部屋とは対になる部屋ですから。ご存じでしょう」
クレールの邸は小さな森を背にして、大きくコの字を描いている。邸の中央には広い中庭、正門はそのまま市街地へ接している。謂わば主であるテオドールの居室と同じように森へ面したリュシアンの部屋が、もっとも邸の奥まった場所だった。
この部屋をリュシアンへあてがったのはマリユスだった。玄関からこの部屋へ繋がる反時計回りの回廊には、どん詰まりにあるリュシアンの私室まで居室として使用されている部屋は他にない。
物置部屋といくつかの客室。それだけの廊下は夜になれば人の出入りはなく、リュシアンの部屋も、元はクレールの当主たちが、客人と称した一夜の相手を連れ込む部屋として使われていた。
テオドールが普段この部屋を訪れることはほとんどない。
簡素な調度や小さな寝具を除けば、元は客室なのだから広さは使用人の部屋としては過分なほどであるし、人気もないことから秘密の逢瀬にはうってつけの場所だとリュシアンは思うのだが、テオドールがいつもリュシアンとともに夜を明かすのはきまって人目に触れる危険性の高い、自身の居室だった。
理由はなんとなく察しがつく。彼がここへ来たがらないのは、おそらくこの部屋へと続く回廊の景色が、彼の忌まわしい記憶を呼び起こすからなのだろう。憎い男たちの元へ向かうリュシアンの姿を、彼はきまってこの廊下の向こうから眺めていたのだ。
それならば、テオドールは先ほどこの扉の前でなにをしていたのだろうか。
ユーグを部屋へ招き入れる姿を見たと言ったが、テオドール自らリュシアンを探す必要などない。誰かに呼びに行かせれば済むだけの話で、事実、彼がリュシアンを呼び出すのはほとんどが使用人を介してのことだった。
この広い邸においては、もちろんその方が早く済むからだ。
「私がド・アルマンに拘っていると言ったな」
ひとり暗い廊下をこの部屋へ向かって歩いてくる主を想像しながらぼんやりとその理由を考えていると、テオドールが腕を組んだまま不意に言葉を発した。
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