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Ⅲ-5

「ええ」  正確にはリュシアンとド・アルマンに、だ。  テオドールは自分たちの関わりについてなにかを知っている。おそらく、リュシアンにとって都合の悪いなにかを。 「もし何かあるのなら教えてください。何も知らないまま貴方の足枷になるようなことだけには、なりたくない」  主の求める関係。それが“主と従者”でないというのなら、それ以上に――もしくは、それ以外になる覚悟はあった。  ただ、覚悟があるだけで気持ちがついていかないのが現状だ。大切にされれば喜びもするし愛しさも募るが、ただがむしゃらに想いをぶつけられていた頃とは違って、テオドールの不器用な愛情はリュシアンを真に戸惑わせていた。  ――年上としての自尊心か。  組み敷かれる側として、愛される側として女のように抱かれるリュシアンが、せめてもの矜持としてテオドールを無意識に支配しようとしていたということなのだろう。  主でありながら、この男は自分に根本的には逆らえないのだと――そう心の隅で考えていたということだ。これが傲慢以外の何なのか。  今もそうだ。ここにきて急速に肉体的にも精神的にもリュシアンを支配しようとしている男を、リュシアンは脅威に感じている。自身の手の届かないところで何かが行われようとしているのを怖ろしいと思っている。 「貴方は私に情夫になれと言った」 「情夫じゃない。伴侶だ」 「どちらでも同じでしょう、貴方にとっては。だから昨夜も、私の意志をわかっていて、無視した」  テオドールは腕を組んだまま苛立たしげに吐息を吐いた。 「ダルマン卿について聞きたかったんじゃないのか? それとも私を責めたいだけか。ならば、その話はまた今度だ。今はこんなことをしている暇はない」 「では一体どんな時なのです! 首を突っ込むなとおっしゃるなら、納得できるだけの理由を私にください!」  瞬間、テーブルの上に残された茶器が激しく踊った。  叩きつけた拳が熱をもってじんじんと痛む。視界の端で薄黄色に濁った光が滲むと、溢れ出た雫が音を立ててテーブルの上へ落ちた。  慌てて袖口でそれを拭う。黒くシミになった粗末な木のテーブルはざらりとした木の感触が心地よく、リュシアンの指は手慰みに木目を辿った。  テオドールの告白を受けてから、心がひどく掻き乱されているのは感じていた。溢れる怒りを抑えられないことも。  今の自分はひどく脆い。ともすれば、こうして我を失ってしまうほどに。  その恐怖はリュシアンに半年前の事件を思い出させる。  テオドールが求愛の手紙を受け取り、マダム・ソフィーと寄り添っている幻影に取り憑かれていたあのとき。リュシアンは初めて、制御できない己の感情に恐怖した。  そして主の心を己のものにしたと安堵したのも束の間、またこうして自制の効かない怒りに囚われている。 「――っ」 「謝罪はなしだ。聞き飽きたと言っただろう」  リュシアンが言葉を紡ぐために息を吸ったのを察知して、テオドールが先を制した。 「私の――お前にとっては不可解な行動が、不安を煽ったのは認める。だがこれから話すあの男についての話が、お前を一切傷つけないという保証はないぞ」 「……かまいません。なにを知ったところで――」  蚊帳の外へ無理矢理追い立てられるようなこの痛みに比べれば、なんのことはない。  リュシアンの覚悟を感じたのか、テオドールは組んだ腕をほどき、暗い森の向こうへ視線を遣った。  そして束の間、何かを言い淀んだあと――。 「お前が気に掛けている男――ジャン・グレゴワール・ド・アルマン卿は、生粋の“純血主義者”だ」  視線を合わせないまま、重々しい口調で呟くように告げた。 「では」 「ああ。お前の身はいま危険に晒されている」 「危険に……その理由が今の……?」 「この警戒だ」  ――なるほど、そうか。  大貴族。王族の血。  もとより、長いこと異国の侵略を許さなかった国だ。異国人への風当たりは未だ強く、リュシアンの生母のように裏で奴隷として売り買いされる者も後を絶たない。 「しかしユーグの話では――」  ド・アルマン公はリュシアンと面識があるらしい。それが真実であるかどうかはわからないが、その態度は少なくともひどく好意的だったという。  話の矛盾を指摘すると、テオドールは首を横に振った。 「お前の存在を知る人間がまったくいないわけじゃない。この邸に足を運んだ者は一度はお前を目にするし、おおかたその辺りから話を聞いたんだろう。ダルマンは数ある貴族の中でもっとも陛下に近い血筋だ。歴史だけはクレールに及ばないが、向こうはこちらのことなど興味も関心も持っていなかった。それが、ここ数年」  なにかにつけてかの男と王宮で顔を合わせることが多くなった――テオドールは言った。 「舞踏会にサロン……最初は暇を持て余した大貴族が気慰みに鼻つまみ貴族へちょっかいを出しているのだろうと……その程度に思っていたが、ちょうど一年ほど前、あの男はあろうことか私に縁談を持ちかけてきた」 「縁談、ですか」  ド・アルマン公は自身の成婚前に先代の死をもって家督を継いでいたはずだ。いくら公爵家と伯爵家という身分の差があったとしても、それほど歳も変わらない――友人でもない男に縁談を持ちかけるなど、さすがに違和感を感じる。 「その件は私より以前に父上がお断りしたがな。陛下の不興を買うのを恐れたんだろう。相手がダルマンの血縁だったからだろうが」 “実子相続”という誓約を先祖代々首の皮一枚で守り続けてきたクレールだ。そこにきて大貴族の縁者を引き入れ、もし家系断絶となれば、それは回り回って王家の血を否定することとも取られかねない。 「しかし、そもそもダルマン卿はなぜ突然旦那様に関心を持たれたのでしょう」 他の貴族にしてみれば、名前だけのクレールなど消えたところで何の損害などなにもない。むしろ豊かな資源に恵まれたクレール領が王の元に戻れば、彼らにも何らかの恩恵が回ってくる可能性すらある。 「その答えが、お前だ」  脈絡のない話をリュシアンは必死に結びつけていく。 「――わたくしが混血だからですか」  察しの良い従者になにを思ったのか、テオドールは口元にうっすら笑みを浮かべた。 「そうだ。あの男の血統主義は、自らのみならず、他の陛下に近しい貴族にまで及んでいるらしい。クレールごときが消えるぶんには茶請けの焼き菓子一枚ほどにも興味が無いが……歴史ある伯爵家の次期当主が混血の――しかも男に入れ込んでいるというのが、大貴族様にはどうにも我慢ならなかったんだろう」 「入れ込んでいるなどと、誰が!」 「少し疑うことを知っている者なら誰でもわかる。実子相続しか生きる道のない家系で、この歳まで嫁を探す気配すらないどころか、男の従者を邸からろくに外にも出さず後生大事にしまい込んでいるんだ。しかもその男が噂になるほどの美しさとなれば、あとは容易に想像がつくだろう」  そもそも入れ込んでいるのは事実だ、などと軽口を叩くテオドールをリュシアンは睨み付けた。 「そのような大事を、なぜ今まで黙っていたのです」 「話したところで何ができる。せいぜい嫁を取るくらいのことだろうが、半年前、一度噂を流しておいたマダム・ソフィーとの縁談も立ち消えになった。むしろあれがダルマンの憶測に確信を与えたな。そしてそこへ、満を持してルネの登場だ。相手にしてみれば、これで役者はすべて揃ったというところだろう」 「そんな」

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