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Ⅲ-6
テオドールにとって、父親の愛妾とのあいだに流した浮評は世間に対する牽制でもあった。事実、多くの人間がテオドールの婚姻を半ば決まったものと信じ始めていたし、一番近くでその動きを見ていたはずのリュシアンにさえ、主が真にリュシアンとの関係を清算しようとしているように見えた――結局、のちにテオドールはリュシアンがマダムとの婚姻を阻止するとわかって噂を広めたのだと語ったが――リュシアンの悋気を煽ること、同性の従者との秘め事を隠匿すること、そのふたつの目的が果たされたことで、とりあえずの平穏は得られたものとテオドール、そしてリュシアンも安堵していたところだった。
「父上も含め、世の人間は簡単に騙されてくれたんだがな……認めたくはないが、どうもあの男と私は思考の一部に似通った部分があるらしい」
食えない敵に対する讃辞とも取れる自嘲の笑みを浮かべ、テオドールは肩を竦める。
「しかし、いくらダルマン公がわたくしの存在を気に入らないからといって、直接わたくしを手に掛けるなど考えにくいとは思いませんか。理由もなく他家の身内を襲うなど、ご自身の名にも傷がつくでしょう」
「あの男はすでにミドン伯爵家、オルワース侯爵家から多くの奴隷たちを連れ去っている。彼らは私兵をもってダルマンの急襲に応じたが、結局、侵攻してくる兵を止めることはできなかった。直訴するミドン伯、オルワース侯にヤツは陛下や他の貴族たちの御前で高々と言い放った。“奴隷制などという非人道的なおこないは、必ず国家の品位を損なうものである。ただちに廃止し、いますぐすべての奴隷を解放すべし”と。そのときのその場に集った者達の顔色といったらなかったぞ」
「では、やはりダルマン卿は――」
「だが」
口を挟もうとしたリュシアンをテオドールが制した。
「しばらくして、今度は妙な噂が流れはじめた。ミドンとオルワースから奴隷を解放して直後、ダルマン領内で大規模な農園の開拓がおこなわれたという噂だ。そして、そこで働く者達は――一様に素性のしれない異国民であるらしい」
ミドン、オルワースの両家は面目と働き手を一挙に失って、もはや虫の息だ――テオドールの言葉に、喉奥から苦いものが込み上げる。
たったいま主の語ったことがすべて真実なのだとしたら、ド・アルマンは体よく奴隷を己のものにしたのだといえる。しかも、陛下の心情に訴えるようなもっとも卑劣な方法で。
異国から働き手として大量に運び込まれた奴隷たち。彼らの多くは貴族や商家へと売られ、多くはそこで一生を終える。運良く移民として扱われた者達がいないではないが、安く買い叩かれた彼らをひとりの人格を持った人間として扱う貴族や豪農は少ない。
奴隷の何たるかを語るとき、リュシアンは同じく奴隷としてこの国に没した産みの母親のことを思い出さずにはいられない。
彼らと同じく拐かされるかたちで奴隷となったリュシアンの母親は、しかし、彼らとは境遇を若干異にしていた。
彼女が奴隷となった経緯について母親自らが幼い我が子に語ることはなかったが、彼女が時折寝物語に語ってくれた生国での美しい思い出から、母親が東国の商家の娘であることは察していた。つまりリュシアンの母は自国から売られたわけでも、戦の戦利品としてこの国に持ち帰られたわけでもなかったということだ。
母親についてさらに詳しいことがわかったのは、母の死後、数日経ってのことだ。
リュシアンへそれを教えてくれたのは、それまで親子で身を寄せていた安宿の女主人だった。
年の頃を老婆に差しかかろうという彼女は、天涯孤独となったリュシアンを哀れんで――というよりも、己が知っている母の過去を誰かに語りたいだけだったのかもしれないが――自分がリュシアンの母から聞いたという、母親の“奴隷”としての過去を語ってくれた。
女主人がきいたところによると、リュシアンの母という人はやはり東国のとある商家の出であるらしい。母親はひとり娘で、店の者からもたいそう可愛がられ、それは幸せな幼少期を送ったのだという。
父親は故郷に大きな店をいくつも持っていて、扱う品はすべて国外から自ら買い付けたものだった。ゆえに一年の大半を海の上で過ごし、稀に帰ったかと思えばすぐにまた旅に出る――そういった暮らしが何年も続いていた。
しかし母親は、そんな父を好ましく思っていたらしい。多くの人足を従え、誰も見たことのない美しい物を次々と自国へ持ち帰る父の姿は逞しく見えたし、父の持ち帰った物が街中に溢れ、人々の暮らしが次第に豊かになっていく様を見るのは幼心に実に誇らしかったのだと言ったという。
そんな母も長じると、今度は徐々に父親の仕事そのものに興味を持ちはじめた。ひとり娘であったことと商売が予想以上に成功したこと、なにより母の真贋を見極める力がいつの間にか店主である父親を超えたこと――すべてが重なり、いつしか次の店主は母であろうと――そう誰ともなく囁くようになっていった。
最初は乗り気でなかった父親も、娘の熱心に商いを学ぼうとする姿勢に絆され、翌年、初めて娘を帯同させての航海へと意気揚々に乗り出した。
それは誰にとっても楽しく、そして母にとって実りある遊学の旅となるはずだった――。
「リュシアン」
「……はい」
リュシアンはひどい頭痛と吐き気に襲われていた。テオドールが声を掛けたのはおそらく、こちらの顔色がすぐれないからだ。当のリュシアンがそれを自覚していた。
肩から上の血の気が引き、首筋が寒かった。反対に肩から背中は異様な熱を帯びて、まるで熱に浮かされてでもいるように血管が強く脈打っていた。
「大丈夫、です。続けて」
「やはり、お前に聞かせるべき話じゃなかった。これでわかっただろう」
「平気です、私は」
リュシアンは手元にあった冷えた茶を一口含んだ。湿った唇を何度か舐めると、冷たく触れる舌の感触に、リュシアン自身のものではない過去と、いま目の前にある現実の境目がはっきりする。
――そうだ。これは私の過去ではない。
初めての遊学を終え出立を翌日に控えた母が、夜中に暴漢に襲われ、ひとり家族から引き離されたことも。そのままどこの誰とも知れない貴族らしい者の元へ売られ、しばらくして不義の子を身籠もったことも。
そして生まれたばかりの我が子を抱き、彼女が決死の思いで囚われていた邸から逃げ出したことも――。
「リュリュ」
「平気ですから」
取り返しのつかない過去を哀れんでも仕方のないことだ。
今はその母が守り、引き寄せたこの“愛”を守ることこそが、リュシアンにとってなによりも大切なのだから。
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