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Ⅲ-7

 それに、聞かされた母親の過去がすべて真実だとも限らなかった。リュシアンがその話を聞いたのはわずか8つのときで、母を失った悲しみが、話をより陰鬱なものとしてリュシアンの記憶に刻みつけたのかもしれなかった。  震える肩をそっと撫でる手があった。顔を上げると、仄赤い影の中でテオドールの哀れむような目がリュシアンを見下ろしていた。 「そう――旦那様、わたくしがかの方に直接お会いします。お会いして、わたくしがこの家では“奴隷”ではなく、使用人として真っ当な段階を踏んで雇い入れられた人間だと証明できれば――」 「無駄だな。ヤツの目的は、お前がこの国の人間として相応しいかどうかを見極めることじゃない。私の元からお前自身を完全に排除することだ」 「では――やはりわたくしのことが気に入らないと、本当にただそれだけの理由で……?」  テオドールは首を振る。 「いや。おそらくもうひとつ理由がある……この家のことだ」 「クレールの?」  ああ、と低い溜め息を吐いて、主はリュシアンの隣に腰掛けた。男ふたりが隣り合えば窮屈な椅子の上で、主は従者の肩を引き寄せ、その広い胸に従者を抱く。引き寄せられるがまま身体を預けてきた従者の黒髪を撫でながら、 「あの男はクレールを憎んでいる……そうだな、恨むというほどではない、憎むという言葉が一番しっくりくる」  言葉とは裏腹の、穏やかな声でそう言った。 「当代の陛下は、殊更クレールに寛容だ。まあ、名ばかりの貴族の端くれなど、排除するための労力をわざわざ割く気にもならないだけだろうが、おかげで父上は“呪い”という、もはや王族ですらその起こりを忘れ去ろうとしている因習にもさして縛られることなく、最後は陛下のお側に仕えるまでに名を上げた。しかしそこに至るまで、クレールが他の貴族にとってあまりに無価値で、むしろ事情を知らない者達にとってはただ領土を意味もなく占領する……まさしく鼻つまみ者であったことはたしかだ」 「旦那様は無価値などではありません」 「無価値で無能だろう――認めたくはないが。私は父と違って、己の力量で陛下の信頼を得たわけじゃない。クレールの威を借りなければ何もできない、ただの血の器だ。しかもクレールは“呪い”によって、この国を取り回すすべての権限、そしていかなる武力の所持をも禁じられている。私には、こうして愛する者を理不尽な暴挙から守るための私兵持つ権利すら得られない。そんな無能な男が」  抱かれる手に力がこもる。 「好き勝手にのうのうと暮らしているのが、あの男の気に入らないところなんだろう。しかもあの男にとって私は、唯一課せられた己の宿命すらその解釈をねじ曲げ、小賢しい保身までしている卑怯な人間だ」 「ルネ様がマリユスさまの跡を継がれることは、充分“呪い”の誓約の範疇であると思いますが」  実子相続が唯一クレールの名を残すことへの条件なのだとしたら、ルネはその条件を充分満たしている。マダムがルネを身籠もった時期、彼女の周囲の人間の証言――どれほど具に精査しても、ルネがマダムとマリユスのあいだに出来た子供であることは疑いようもない。  加えて、マリユスとテオドールを知る人間ならばルネの姿を一目見ただけで納得するほど、一族の男たちの容姿は似通っている。すべての調査をおこなったのが王の選任による者達であったということもあって、ルネはこれといった反意もなく、マリユスの後継として受け入れられたものと、リュシアンは聞いていた。 「誰もが忘れているだけで、古い誓約に則るなら、私に子が生まれない時点でこのクレールは終わりだった。領地を王に返還し、一族はすべて名を捨て、大人しく血が絶えるのを待つ。それが、我々が避けることのできない“呪い”だ。“呪い”の本当の意味を知る者からすれば、ルネの存在は苦し紛れの言い訳に過ぎない」 「“呪い”が生まれた当時と現在では状況が違いすぎます。クレールはこれほどの誓約の中で、大いなる忠心を示してきた。それが評価されたからこその存続でしょう?」 「それはこちらの言い分だ。そもそもこの“呪い”は、生まれた理由があまりにも罪深い」 「それは――」  リュシアンは“呪い”の生まれるきっかけとなった、ある痛ましい出来事に思いを馳せた。一度だけ養父に聞かされた絵空事のような真実は、リュシアンには俄に信じ難かった。真にそのようなおぞましいことが起きたのか――おぞましいことをクレールの当主が起こし得たのか――思い返すたび、リュシアンは夢の中にいるような不安定な心地になる。  クレールの“呪い”は罪の証。その罪の重さに相応しいだけの枷を今のクレールが負っているのかどうかと問われれば、たしかに“そう”とは言えない。  テオドール自身も常々感じていたのだろう。言葉には諦めに似た、どこか投げやりな態度が滲む。 「私たちは最初から許されるべきではなかったのかもしれない。誓約付きの命など与えられず、最初から滅んでしまったほうが世のためだったのかもしれない。そして――おそらくジャン・グレゴワール・ド・アルマンという男は、今もそう強く思っている。私という人間が存在することすら、許しがたいと」  自分の思い通りにならない苛立ちは私にもよくわかる――低く笑うテオドールの胸に、 「そんなことをおっしゃるなど、旦那様らしくありません」  リュシアンは頬を強く擦りつけた。テオドールは驚いたのか、小さな苦笑が額にかかる黒髪を揺らした。 「らしい? 私らしいとはなんだ」 「いつも不遜なほど自信に満ちあふれ、己の正しさを露ほども疑わない――そういうところです」 「褒められてはいないようだな」 「褒めずとも、私にはそれこそがテオドール・ド・クレールです」 私が心を捧げた唯一の男です――。  深く息を吸い、慣れた芳しい香りを舌の奥で転がす。途端に、冷たく縮こまっていた舌の根が柔らかくほどけて、素直な言葉が胸の奥から溢れ出した。 「貴方はここ数日、私の知らない顔ばかりする。いつか貴方が私の愛する貴方ではなくなってしまいそうなのが……怖い」  「ずいぶんと殊勝な物言いをする」 「反省を、しています」 「反省」  言葉を詰まらせると、聞き返すように男の語尾が跳ね上がる。 「お前がなにを悔いることがある」 「私は自分のことしか考えていなかった。貴方の突然の変化に戸惑って、その原因がすべて自分にあるのではないかと、自惚れた。恥ずかしい。貴方がダルマン卿との関わりでどれほどお心を痛めていたのか。それに気づけなかった自分も――このようなときに心を開いて頼っていただけなかったことも。すべては私が未熟だったせいで」 「お前の資質云々はこの際関係ない。そもそも私がもっと慎重なら、あの男の執拗さにもっと早く気づけたはずだ。お前を奪われて、もしものことがあればと……考えても仕方のないことを何度も考えて、判断を鈍らせた。その結果がこうしてお前に要らぬ心配をさせた」  反省するなら私のほうだと、悔いる姿がリュシアンの胸を打つ。 「旦那様」  潤む榛色の視線と、もどかしげな紫の瞳がかち合った。 「くれぐれも安易な対立はなさらないでください。ルネ様のためにも」 「この期に及んでルネの心配か?」 「貴方の無事は、もちろんすべてにおいての前提条件です」 「そうじゃない。まずは自分の心配をしたらどうだと言っている」 「私は大丈夫です。私には貴方がいる……でしょう?」  テオドールが微笑み、 「私がお前を守るさ。何者からも――どんな運命からも」 「……許してくださいますか? 貴方の誠意をわずかでも疑った私を」  縋る手が蜜色の髪を絡め取ったその一瞬、 「さあ。だが、もしお前がこの件で少しでも私に恋心を抱くというのなら、すべてが報われるかもしれないが――どうだ?」  リュシアンの知る、すべてを見透かしたようなあの笑みがテオドールに蘇った。  ――この男に恋をする。  それが可能かどうかはまだわからない。  ただリュシアンはいま、初めての感覚が胸に去来しているのを感じている。この男を前にして、切ないような、焦れるような気持ちを覚えている。不快と快感のちょうど狭間をゆったりと漂うような、なんともむず痒い感覚を。

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