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Ⅲ-8
「テオ」
男は肩の黒髪を払いのけ、剥き出しにしたリュシアンの浮いた鎖骨に唇を寄せている。名を呼ぶと、こちらもまた以前と変わりない、不満そうな吐息をひとつ漏らした。
「断る」
止めるな、と抗議の声を上げるのを、リュシアンは苦笑で柔らかく制する。
「聞いてください。あと少しだけ」
貴方と愛し交わしたいのは私も同じなのだ――視線で語ると、大きな犬のような体躯が名残惜しそうに離れていった。
覚えたてのこの快美感に身を任せるのは容易い。けれどもまだ、リュシアンにはやらなくてはならないことが――たしかめなければならないことがある。
真にテオドールの愛を受け入れるために。
リュシアンが、テオドール・ド・クレールの“伴侶”となるために。
「テオドール。私は貴方に従います。これからは従者としてでなく、私を想う貴方の言葉を信じて、貴方のやり方に従います。貴方が、すべてが終わるまでここにいろというのなら、それが私を守る唯一の術だというのなら、それに従います。その代わり、ひとつだけ私のわがままを聞いてください」
「わがまま?」
テオドールはリュシアンの腕の中でしばし逡巡したあと、口の端を歪めて、いいだろう、と答える。
「お前は一体なにを望む」
12で邸に上がって、リュシアンにはこれが初めての願い事だった。
「貴方の――『力』を私にください。その力で、ド・アルマンに捕らえられた奴隷達を救いたいのです」
貴方の“伴侶”として、貴方が持つ力と同等の権限を私にください――それはあまりに思いがけぬ願いであったのか、テオドールはリュシアンが話し終わってすぐ、訝しげに両の目を眇めた。
「私に他家の奴隷を解放しろというのか? それが今のクレールにとってどれほど困難なことか――」
「わかっています。これが到底無理なお願いであることも。ですが、私が従者ではなく貴方と対等な立場の伴侶になるには、この願いはどうしても必要なのです。囚われている奴隷達……彼らのためだけでなく、私自身のためにも」
その『事実』こそが必要なのです、とリュシアンは言った。
「私はこれまで彼らの存在に見て見ぬ振りをしてきました。自分は混血だ、奴隷の子だと口では言いながら、心のどこかで彼らと自分とは違うのだと、そう思っていたのです。反面、貴方のおっしゃるとおり、こうして地位と愛を手に入れてなお、自分は生涯使役される運命にある者だと自らを卑下してきた。私はずっと、どっちつかずだった。しかし、こうして貴方に伴侶として愛情を与えられたことで気づいたのです。自分が恵まれた運命にあることに」
自分は愛されている。新たな家族を得、仲間の信頼を得て、そしていま伴侶を得ようとしている。
それを認めてこそ、リュシアンはテオドールの本当の愛を受け入れる器となれる。
「貴方と同等の立場にならなければ、貴方の伴侶にはなれない。すべては私の心の問題です」
「それが他の奴隷の解放に繋がるのか」
「……私は生涯、従者として貴方にお仕えするつもりだった。貴方の伴侶となるのなら、その考え自体を真っ先に取り払わなくてはならない。でも、この長年身体に染みついた忠誠心は、そう簡単には消えないのです。だから貴方が伴侶として私を愛してくれることを、心が拒絶した。違和感を感じ、嫌悪さえ抱いた。自分自身を否定されたような気持ちになった」
従者としてのリュシアン・ヴァローは拒絶された。放り出された生身のリュシアン・ヴァローは、いま新たな拠を求めている。
「私は産みの母のことをほとんど知りません。しかし、あの人がいつか“持つ者は持たざる者へ与えなくてはならない”という言葉を口にしたのを、うろ覚えに覚えています。当時『持たざる者』であった彼女がなぜそんな言葉を口にしたのか……それはわからないままですが、私自身が『持つべき者』になるというのなら、その力は誰かのために使わければならない。それが、私の新たな拠となる」
テオドールが、リュシアンへの愛を介してルネへ思いやりを示したように。同じように、他の誰かをも助けることができできるのではないか。
「私を貴方のものに――貴方を私のものにしてくださるのなら、まず、その力をください。ド・アルマンに攫われた奴隷達……彼らに自由を取り戻し――できることなら、故国へ帰してあげてほしいのです」
テオドールは沈黙した。目元は険しく尖り、口元はきつく結ばれているが、リュシアンにはそれが彼の拒絶ではないとわかる。
彼は今、ありとあらゆる算段を頭の中で講じているのだろう。リュシアンの願いを聞き入れ、その先にある自らが望む未来を手に入れるために。
そんな男を愛しく、頼もしく思うのは、彼を伴侶として受け入れようと今も昔も変わらない。
「お願いします、テオ」
「……上手くいくとは限らないぞ。下手をすれば誰かの血を見ることになるかもしれない」
「もちろん、深追いはなさないでください、テオドール。私は貴方が無理をすることを望まない。どんなに非道と言われようが、私にとっては貴方が何より大切なのですから」
「試されているんだな、私は」
「ええ。これは大人の駆け引きです。大人の、恋の」
「こんなにも代償の大きな賭は初めてだ――――だが、叶えるさ。それでお前の心が手に入るのなら」
大きな手がリュシアンの頬を撫でる。髪を一束指に絡め、恭しくそこへ口づけた。
「私のすべてはお前のものだ、リュシアン」
シャツの裾から熱い指が入り込み、薄い胸を辿る。手が布を捲り上げると、ぎりぎりの興奮に尖りきった桃色の粒が姿を現した。白いシャツと部屋に揺らめく橙色の灯り。勃ち上がって影を作るほどに隆起した突起を、テオドールの指先は宥めるように優しく擽る。
「あ、ん……」
力が抜け、消え入りそうな声が鼻を通り抜けていく。リュシアンの黒髪はうなじのあたりで総毛立ち、快感を逃そうとするたびに長椅子の上で小さな音を立てて踊った。
「だ……れか、外にいるのでは……?」
「声を出すな。お前の言うように、外で誰に聞かれているかわからないぞ」
一際弱い耳元で囁く言葉に頷いて、抱かれる腕に導かれるまま、長椅子へふたり重なるように横たわる。そのあいだも不埒な指先は充血した突起を、感じやすい腰骨を触れるか触れないかのいやらしさで愛撫している。
時折木々の枝が揺れて葉の擦れる音が響くたび、リュシアンは身体を強張らせた。夏が始まり、もうあまり聞こえないと思っていた梟の鳴く声がやけに大きく響く。
怖ろしかった。こうしてしっかりと抱き合っていてさえ、いつ凶刃がこちらを襲ってくるとも限らない。
だが。
「大丈夫だ。何も心配はいらない」
目の前の温かい腕に縋ると、胸に冷たく張りつく不安が、淡雪のように溶けていくのを感じる。
――ああ、こんな人生を送る日がくるなんて。
ずっと従者として生きてきた。身体を売り、恩を返し、やっと自分だけの居場所を手に入れた。
しかしもう、それ以上を望んでもいいのだ。この腕の中で、ずっと。
「愛しています……テオドール・ド・クレール。私を貴方の伴侶に……」
目を閉じ、囁くリュシアンにはその時。
「……ああ」
これから“伴侶”となる男が、一体どのような顔で自分を見下ろしているのか――。
「お前はこれから先も、黙って私の隣にいればいいんだ」
それを、知るはずもなかった。
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