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Ⅳ-1

   夏の暑さが森を擁するクレールの邸にも迫り、石畳の敷かれた街並みに人々の各々体調を気遣う声が飛び交う頃。リュシアンはひとり、澄んだ風が吹き込む自室で、手慰みに始めた絵をちょうど一枚完成させた。  絵を描くことに興味があったわけでも、特に崇拝する画家がいるわけでもない。ただ、暇を潰すのに手紙などを書こうにも送る相手がおらず、危険だと忠告された庭では気の向くままに散策をするわけにもいかないリュシアンには、ここひと月、これといって用のない時以外自室から一歩も外に出ないという生活を送り続けていたせいで、ついに何もすることがなくなってしまったのだった。  それにしても。  ――これはひどい。  目の前に置かれた出来上がったばかりの絵はたまたま自室に飾ってあった天使の象を写生したものだったが、描いているあいだは気にならなかったものの、こうして完成したものを改めて見ると、優美で、かつ力強く広がった分厚い羽根は、リュシアンの絵では背中のどこから生えているのかもはっきりとしないし、慈しみ深く微笑むはずの口元は口の端が少しばかり歪んで、まるで人々を性の快楽に誘い込む淫猥な悪魔のごとく、いやらしく微笑んでいるようにも見える。  とりあえす自分には絵の才能は皆無らしいと持ち前の不精さを言い訳にして、リュシアンは早々に筆を置いた。  がたつく椅子を引き、立ち上がる。窓辺に寄って緩やかにはためくカーテンを引くと、わずかに湿気を帯びた風が鼻先を擽って、少しばかりくたびれた草の香りが肺を満たしていく。時折遠くで楽しそうな甲高い声が上がるのは、午睡から目覚めたルネが庭遊びでもしているのだろう。  夏の盛りでもクレールの庭は美しかった。綺麗に刈り込まれた生け垣には爽やかな白い花弁のムクゲが咲き誇り、風に揺れるとその薄い花弁を軽やかに揺らしてリュシアンの目を楽しませた。  生け垣はヴァローの男たちの手によるものだ。  昨年のことだったろうか、花の中央に滲んだように広がる赤が素晴らしいと庭師を務める兄に花の感想を告げたことがあるが、そのとき兄は一瞬誇らしげに胸を張り、そしてすぐに、どこか申し訳ないような、ちょっと困った顔をした。あとでテオドールが聞いたところによると、その花の原産はリュシアンの生母の出身地で、兄はその花をリュシアンの部屋の前に配置したことへの迂闊さを恥じたのだということだった。  もちろんリュシアンにとってはどうでもよいことだった。その花に母との思い出があるわけでもないし、かといって兄に『気にしないでくれ』と改めて言うわけにもいかず、むしろ彼に気を遣わせてしまったことを申し訳なく思った。  テオドールもまたリュシアンと同じような思いを持ったようだった。同じムクゲの生け垣が今年も見事に作られたところを見ると、テオドールは兄に、弟は花の種類など気にもとめていないと伝えたのだろう。この配慮はありがたかったとリュシアンは今でも思っている。兄はきっと、リュシアンの言葉では心からの納得はしなかっただろう。  そう。テオドールは見えないところでリュシアンを気遣ってくれていたのだ。  口では『淫乱』だの『恥知らず』だのと手酷い言葉を浴びせてくれるが、意地の悪い言葉の奥でリュシアンに対する深い愛情を表していることはわかっていた。これまでもけっして気づいていなかったわけではない。  リュシアンは、ここ数日姿を現さない主のことを想った。  リュシアンが自室に籠もりはじめて、ひと月。最初のうちは毎晩足繁く顔を出していたテオドールも、日を経つ毎に足が遠のき、いまでは三日に一度扉越しに声のやりとりをするだけになっていた。  主が忙しくしているのはわかる。それというのも、リュシアンが籠もっているあいだに、クレール直下のこの街を夜盗が騒がせているらしいのである。  らしい――というのは、リュシアンがこの部屋の外で起こっていることを正確に把握できていないからだ。  主の話によれば、クレールで唯一住民達の身を守る自警隊は、夜盗を捕縛すべく毎夜のように駆り出されているという。若い男たちが頻繁に家を空けるせいで女子供は不安感を募らせ、平素は平和な街全体がいまやすっかり暗い影に覆われているよう――。そんな胸の痛む話を主から聞くにつれ、リュシアンは心を痛め、とても己の身だけを案じる気分にはなれないのだった。  加えて、自分がテオドールの支えになれないこともリュシアンの心痛を誘った。  主が不在のこの邸を守るのは、普段ならばリュシアンの役目だ。ルネはもちろんのこと、邸に来たばかりのユーグではまだ細やかなところまで目が届かない。  さらに、私兵を持たないクレールが有事の際に頼るのはクレールと古くから親交のある貴族たちである。  マリユスを当主として仰いでいた時代は、彼らの力を頼るのに必要だったのはリュシアンだった。なにも金銭的なことだけではない。リュシアンの身体が守っていたのは、まさしくクレール領そのものでもあったのだ。  しかしリュシアンがテオドールただひとりのものとなった今、掛け値なしにクレールに助力してくれる者達は極めて少ない。その中でテオドールは、文字通り自ら駆けずり回って己の街を守ろうとしている。  ――こんなときに、私はなにをやっているのだろう。  リュシアンは背後の不出来な絵をちらりと見遣り、深い溜め息を吐いた。  街を襲っている者達がド・アルマンの手の者だとしたら、そもそもの原因はリュシアンなのである。そのリュシアンのためにテオドールは自らの警護を外し、邸を守らせている。  何度か護衛を連れて行ってくれと頼んだことがあった。そのたびにテオドールはリュシアンを慰め、その腕に抱きしめて優しく諭した。  自分の身くらいは自分で守れる。我々が動揺する様を見せれば、それこそあの男の思う壺だ――。テオドールの言葉を思い出す。  たしかに、クレールの邸内に外で起こっているような混乱は一切見られない。ルネは常のようにのびのびと過ごしているし、少々考えすぎの性質があるユーグにも、リュシアンが不在ということ以外に心配事の類いは見られない。幼いルネはともかくとして、心身共にまだまだリュシアンの手を借りることの多いユーグが、こちらにわからないよう上手く動揺を隠しているとも考えにくい。それだけテオドールが邸の者達に心を配っているということなのだろう。  リュシアンは細く溜め息を吐いた。いつの間にかシャツの背にじっとりと汗が滲んでいた。  こうして少しずつ世界から切り離されていく自分を思うと、胸の奥から叫び出したいほどのもどかしさや苛立ちが溢れてくるのがわかる。テオドールの無事、そればかりが気がかりで、いますぐにでも部屋を飛び出して、疲弊した彼を労ってやりたい衝動に駆られる。  テオドールと離れてからずいぶんと心が弱くなった気がしていた。彼がいつこの部屋へやってくるのか――それこそ妾のようにそれだけを心待ちにして、いざ彼がやってくると自らの現状も顧みず、その逞しい腕に抱かれたいと思ってしまうようになってしまった。  今まではまったく食指の動かなかった描絵などをして、自分の心から気を逸らさなければならないほどに。  ――やめよう。  考えても仕方がない。今リュシアンにできることはテオドールの『お前を守る』という言葉を信じて待つことだけだ。彼ほどの男がまったくの無策で動いているとは思えない。テオドールの思考はいつもリュシアンの一歩先を行く。無謀なことはしないと誓ってくれたのだから、彼が大丈夫と言うのなら、それはそうなのだろう。  リュシアンは考えることをやめた。考えることに疲弊して動けなくなった、と言ってもいい。姿形もわからない、得体の知れない男の存在が心に重くのし掛かり、テオドールの言葉を支えにしなければ、すぐにでも足元から崩れ落ちてしまいそうだった。  窓辺に置いた水差しから水を一杯汲む。舞い込んだ薄緑の瑞々しい芝の葉が一枚、硝子杯に落ちて水面を揺らしたが、気にせずそれごと飲み干した。  わずかに軽くなった心と硝子杯を卓へ置いたとき、ふと自室の扉を叩く音がして振り返る。心臓が一度勢いよく跳ねる。熱くなり、暴れ出した鼓動を抑えるように開けたシャツの前を掻き合わせ、リュシアンは足早に扉の前へ向かった。 「どなたです」 「私だ」  小さな呼び掛けに返ってきた答えは、まさしく待ちわびていた男のものだ。

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