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Ⅳ-2

 震える指をもどかしく思いながら錠を外し、逸る気持ちを落ち着かせる間もなく扉を開くと、 「……っ!」  声を上げる間もなく扉の前に立っていた男に抱きすくめられた。  そのあまりの力強さに一瞬、背筋をひやりとしたものが通り過ぎる。反射的に突っぱねた腕をやすやすと掴まれ、誰か、と叫びだしそうになったところで、 「不用心だぞ。相手が誰かを確かめず扉を開けるんじゃない」  呆れたような声が耳のすぐ近くで響いた。顔を上げた先には悪戯な、それでいて蠱惑的な笑みを浮かべたテオドールの顔がある。 「……旦那様!」  先ほどとは違う鼓動で跳ねた己の心臓を宥め、リュシアンは抗議の視線を向けた。  しかし、可愛らしい抵抗には露ほども動じない様子のテオドールは、目の前の黒髪を一度愛おしげに撫で、脇目も振らず部屋の中へと歩み出した。格好はシャツにズボン、長い髪は邪魔にならない程度に緩く束ねられている程度の、簡易な服装である。どうやら私室から直接ここまでやって来たようだった。  ほんの三四歩で部屋の隅の長椅子まで辿り着いた主は、そこへ腰掛け、長い脚を大儀そうに組んで大きく伸びをした。リュシアンが傍らへ控えるように立つと、瞳を眩しそうに細め、大きなネコ科の生き物が青空の下太陽を仰ぐように、うっとりと従者を見上げた。  ほんのりと胸を撫でる気恥ずかしさにリュシアンは戸惑う。数多の溜め息に満たされた小さな部屋は、幸せそうな主の姿がそこにあるだけで、たちまち鮮やかに彩りを取り戻した。 「邸へは、いつお戻りに?」 「今朝」 「お疲れでしょう。少し休んでいかれますか」 「いい。せっかくお前の顔を見に来たというのに、時間がもったいない」  ひら、と手を振り、主は大きく欠伸をする。 「昨夜も夜盗が?」  湯を沸かすために部屋を出るのも極力控えるよう言われているため茶も淹れられず、リュシアンは仕方なしに、持ち込んでいたワインを水差しの水で割って主へ差し出した。  薄いワインを受け取ったテオドールはそれを一気に飲み干すと、 「昨夜は現れなかったようだ。私は他用で少し遠出をしていた」  遠出、という言葉にふさわしく、ふとどこか遠くを眺めるような表情を浮かべた。 「それもダルマン卿の件、ですか」 「ああ。どことは言えないが」 「……ええ。わかっています」  こうしてテオドールが部屋を訪れる際も、リュシアンは事態がどのように進展しているのかを訊ねることはなかった。根掘り葉掘り聞いてしまうと、まるで主を信用していないように受け取られかねないし、リュシアン自身が『奴隷』という言葉を耳にしたくなかったということもある。  この部屋にあるあいだはしば殺伐とした日々を忘れ、テオドールの言うように、ふたりの時間を堪能したかった。 「留守中なにか変わったことは?」  声を掛けられ、顔を上げる。 「なにも。旦那様が私を大病人に仕立ててくださったおかげで、食事を運んでくれる者以外誰も部屋を訪れません。おかげで毎日暇を持て余しています」 「それで、あの絵か」  笑い混じりの声にはっとして、絵を眺めるテオドールの視線の先へ慌てて割り込んだ。  リュシアンのあまりの慌てように、主は揶揄するような視線を寄越す。 「意外だな。お前に掃除よりも苦手なものがあったなんて」  掃除だって苦手というわけではありません、とリュシアンはすかさず言い置いて、 「これまで絵を描く機会がなかったのです。才能はないようですが、練習すればもう少しまともなものが描けるようになります」  子供のようにむきになりながら、主の視界の外へ絵を押し遣った。台座に置かれた天使の象には素早く布を被せると、その様子を見ていた主が声を上げて笑う。 「そういうところが“掃除が苦手”と言われる所以なんだ」 「掃除と整理は別ものです!」 「そうだ、絵を描くなら良い画家を知っているぞ。人に教えるのが上手いと評判の画家だ。この際、描き絵を趣味にしてみるか?」 「結構です」 「なぜだ。筆を握るお前を見てみたいし……そうだな、お前の姿を手本に絵を描かせるのもいいかもしれない。いや、私ならむしろその筆でお前を――」 「そのような暇はありません。この件が片付きましたらすぐ」 わたくしは貴方の従者に戻ります――――そう続けようとする気配を敏感に察知したのだろう。テオドールはそれまで愉快そうに微笑んでいたのをぴたりと止め、長い脚を緩慢な動作で組み替えた。

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