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Ⅳ-3

「リュシアン」 「……はい」 「そう身構えるな」  お前の言いたいことはわかる、とテオドールは穏やかに言った。 「もちろん、お前にはこれからも私の従者として働いてもらうつもりだ」 「……本当、ですか」 「ああ。お前がいないと日々が不便でしかたない」  そう言って、主は結んだ髪の先を摘まむ。 「見ろ。何度結びなおしてもこのザマだ。この歳になって、己の髪すらまともに扱えない」  長い髪は、そう言われてみればたしかに結び目が少々不格好ではある。いかに新米のメイドといえども髪を結ぶのにここまで不器用なことはないだろうから、彼が言うように自分で結ったのだろう。 「誰か人をお呼びになればよろしかったでしょう」  リュシアンが部屋に籠もっているあいだ、主の世話は他の誰かがおこなっているものと思っていた。邸は有能なメイドを幾人も抱えているし、リュシアンがテオドールの従者となる以前は、誰かがその役目を担ってきたのだ。  だから当然、今回もそうであるものと気楽に考えてはいたのだが――。 「まさか、このひと月ずっと?」 「ああ。湯浴みも着替えも、すべて自分でやった」 「そんな――お疲れでしたでしょうに」  ここ最近のテオドールの忙しさを考えれば、眠る時間すら惜しかったはずだ。加えて、慣れない身の回りの細々したことをこなすにはそれなりの時間を要するだろう。着替えひとつ取っても、彼ほどの身分になれば様々な用意がいる。時節に合わせた服、袖飾り、流行りの香水など、数え上げればきりがない。 「たしかに、ここひと月の私はずいぶんと不様な格好をしていただろうな。もしかすると蔭で笑われていたかもしれない。だがそんなこと、どうということはない」  お前のことを思えば、とテオドールは言う。 「私の?」 「忘れたのか? 以前、私を他の誰にも触れさせないと言っただろう」  リュシアンは目を瞠った。  その言葉は、たしかにリュシアンが以前口にしたものだ。  テオドールに撓垂れかかるマダムの姿。それがどうしても我慢できず、つい身の程も弁えずに主へ訴えてしまったのだった。  それを――守っているのか。自身すらひどく不自由なこの状況下で。 「以前の私なら、これ見よがしに幾人も世話人を侍らせていただろう。お前の関心を買いたくて、お前の手など借りずとも生きていけると、子供のような対抗心を燃やして。だが、もう私はあの頃の私じゃない」 「……まるで『褒めろ』と言わんばかりの口ぶりですね」 「褒めてもいい。どうせ、褒められたくてやっているのだから」  長椅子に背を凭せかけ、得意げにふんぞり返る姿はルネによく似ていた。 「子供扱いは嫌だと……そうおっしゃったでしょう」 「そんなことを言ったか? まあいい。お前は“大人の褒美”を与えるのが得意だろう。この場合、それを寄越してくれてもいいんじゃないか?」  大人の褒美、というものがどういうものか――リュシアンは知っている。自分がどう行動すれば主が喜ぶのかも。  ぐ、と喉が鳴る。喉奥に滲む期待を、リュシアンは視線を逸らして呑み込んだ。 「ほ――褒められたことではありません。クレールの“顔”である貴方がみすぼらしい姿を人々の目に晒すなど、そんなことあってはならない。そして、主をそのような状況に陥らせたわたくしも同罪です」 「“わたくし”? ふたりきりのとき、お前は私の伴侶じゃないのか?」 「伴侶――ですが」 「では、私の伴侶としては? 他の者の手を借りず、不自由を受け入れてまで妻との約束を守った夫を目の前にして、なにか思うことは?」 「それは」 「お前の、今の素直な気持ちを聞かせてほしい。私の行動は今、お前の心を動かしているか? お前に好かれたいと思う気持ちが、態度がまだ足りないというのなら、もっと力を尽くす。だから」 「いいえっ、そんな」 尽くすというのなら、もう充分過ぎるほど尽くしてもらっている。こうして寸暇を惜しんで足を運んでくれることにも、最近はようやく申し訳なさより嬉しさを感じるようになっているのだ。  無理をするなと言えば、好きでやっている、と返ってくる。その言葉が真実だと信じられるようになったのは、彼がリュシアンと向き合うとき、これまでにないほど幸せそうな笑顔を浮かべるようになったからだ。  その笑顔を見るにつけ、自分は本当に愛されているのだと胸が熱くなる。  自分の存在が、彼を幸福にしているのだと。 「その……」  じ、と期待に満ちた目がリュシアンを見ている。目の前にエサをちらつかされた犬のように。  ――――なんて可愛らしいのだろう、この男は。 「嬉しい、です。とても」 「何が」 「…………ですから、貴方が」 「私が?」  にやにやと愉しそうに笑う顔が憎らしい。憎らしい、とはっきり思えるようになったのも、ここ数週間のことだ。  少しずつ近づいていく距離。甘やかされ、我が儘になっていく自分。  これまで分不相応だと、醜いと思っていた姿を、テオドールはもっと見せろと言う。 「貴方に私以外の誰も触れていないことが――とても嬉しい」

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