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Ⅴ-1

  翌朝、リュシアンは寝台の上で目を覚ました。  身体は綺麗に清められ、傍らには新鮮な水をなみなみ湛えた水差しが置かれている。  どうやら先に目覚めたらしいテオドールの姿を探して部屋を見渡すも、湿った空気は重く静まりかえり、どこかに人のいる気配はない。 「……旦那様」  ――胸騒ぎがする。  昨夜耳にした声。あれは真実、テオドールのものだったのだろうか。  あの悔いるような、物悲しい声は。 「まさか」  思ってみて、リュシアンはひとり自嘲した。  テオドールが最後に涙を見せたのは、もう十数年も前のことだ。リュシアンの汚れを知って以来、彼は人前で泣くのをやめた。実際、彼は口にしてもいた。 『泣いて過去が変わるのなら、たとえこの身体が干からびたとしても、お前を清らかなままの姿にもどす』と。  その彼が、いかに心安まらない日々を過ごしているからといって、そう簡単に弱音を吐くとは思えない。 「……まさかな」  自分に言い聞かせるように、再度呟く。  なぜか手の甲に残る引きつりのような小さな違和感には気づかないふりをして、リュシアンは寝台を下りた。  シャツに袖を通し、髪を結う。カーテンを開けて朝の空気を吸うと、じく、と腹のあたりに違和感を感じた。  そこがじくじくとした痛みを訴えはじめたのは、数日前。以来、飲み物やスープは口にすることができたが、肉や魚は新鮮なものでも受け付けなくなった。  重い病に罹っているというリュシアンを元気づけるために、料理長自ら腕によりをかけて食事を用意してくれているとわかってはいても、こればかりは身体が受けつけてくれない。  このままではいつか本当に弱ってしまいそうだ、と溜め息を吐きつつ今日も扉の向こうに置いてあるであろう食事を取りに行くと、リュシアンが把手に手を掛けるより一瞬早く、扉が開いた。 「起きたのか」  目の前へ現れたのはテオドールだ。朝食を乗せた盆を手に目を瞠る彼の姿を見、リュシアンはぎくりと肩を強張らせる。 「ええ、たった今……」 「もうしばらく寝ていてもよかったんだぞ。冷めてもいいようなものを作らせておいたから、食べられるようなら食べるといい」  そう言って差し出されるのは、柔らかく焼き上げた白パンと野菜のスープ。肉や魚が一切入っていないそれに、石のように固く縮こまっていた腹がゆっくりと動き出す。 「ありがとうございます。いただきます」 「昨日、抱いてみてわかった。少し痩せすぎだ」  肉をつけろと言われて、やはり違和感が残る。以前はリュシアンの変化を些細なことも敏感に感じ取っていたテオドールが、リュシアン自身にもはっきりとわかるほど肉の落ちた今の姿に、手を触れるまで気づかなかったのだろうか。  それでも気遣いはありがたかった。彼が見ている前ではせめて食事に手をつけようと、リュシアンはここにはいない料理長への讃辞を述べて卓につく。  食事を終えると、テオドールは早々に部屋を出て行った。  翌日も、そのまた次の日も。  それまでの多忙ぶりが嘘のようにテオドールは連日部屋リュシアンの元へやってきた。  はじめは食事を運び、様子を見て部屋を去るだけだったのが、共に過ごす時間は徐々に増え、次第に夜まで部屋に止まることも多くなっていった。  そして、リュシアンを抱くとき、相変わらず彼は我を忘れた。  テオドールの訪問は、どう少なく見積もっても異常だった。  度重なる悪漢の襲撃に、街の人々はどう過ごしているのか。  従者の世話に付き切りの主を、他の使用人はどのように思っているのか。  訊きたいことは数あれど、甲斐甲斐しく世話を焼くテオドールの姿を見ると、疑問は喉の奥でつかえ、凝る。  これではまるで――終始見張られているような。  もやもやとした疑念を胸に抱えるうち、リュシアンはついに体調を崩した。  翌日、目覚めてまず感じたのは目眩だ。  身体が重かった。痩せて軽くなったはずの手足が思うように持ち上がらず、胸も苦しい。前の晩飲み込んだ主の出したものがいつまでも喉の奥に絡まっているような、そんなごろごろとした不快感に、リュシアンは眉を顰めた。  耳を澄ませると、窓のむこうがにわかに騒がしい。声はリュシアンの私室と中庭を隔てる、生け垣の向こうから聞こえる。  走っては怪我をいたしますよ、と慌てふためく声はユーグのものだろう。とすれば、一緒にいるのはルネだろうか。  リュシアンは重たい身体を引き摺るようにして窓辺へ寄った。  カーテンを開けると、昇ったばかりの朝日が目に染みる。腫れて痛む喉を我が物顔に通り過ぎていく風は、いつの間にか秋の気配を含んでいる。  庭は相変わらず美しかった。その美しい庭を眺めているだけで胸がすっと空くような安堵感がある。  しばらくこうしていれば調子も戻るだろうと、昨夜テオドールが替えてくれた水差しに手を伸ばしたとき。 「あ……」  がさり、と生け垣の葉が揺れる音とともに、そこがぽっかりと穴を開け、見慣れない茶色の塊が姿を現した。

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