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Ⅴ-2
「犬?」
草むらから顔を出したのは丸々とした体つきの仔犬である。
肉付きのいい前足をばたばたと振り回し、丸太ほどもありそうな胴を生け垣から引き抜くと、仔犬はまっすぐリュシアンの下へ駆けてきた。
窓下から身体を伸ばし、覗き込むリュシアンへ向かって何度も飛び跳ねる。荒い息が煩いほど周囲に響いて、獣臭さがつんと鼻をつく。
狩りをする男のいないクレールでは犬は飼育されていない。しかし、目の前の仔犬は頑健で毛艶も良く、うっかり迷い込んできた野良犬というわけでもなさそうだ。
――でも、なぜ犬がこんなところに?
テオドールがルネに与えたのだろうか。よく見れば、仔犬の首に埋まるようにして革の首輪がついている。
リュシアンは仔犬が開けた穴の向こうを覗き込んだ。するとしばらくして、ぽっかりと空いた穴の向こうから、今度は見慣れた金色の頭が飛び出す。
ルネだ。
「あっ。ルネ様!」
今度は穴のすぐ側から声が聞こえる。
その声が聞こえているのか、いないのか。少年は、転がるように穴から這い出すと、服についた土もそのままに、突如として金切り声を上げた。
「リヨン!」
どうやらリヨン、というのが犬の名らしい。
犬も自分の名を知っているのか、ぴんと立った両耳をルネのいるほうへ向ける。そして“獅子”と名付けられたそのままの雄々しさで、少年へ向かって一直線に駆けだした。
仔犬は巨体を揺らして走る。
やがてルネの目前へと迫った仔犬は、勢いを殺すことなくルネへ飛びかかった。
無邪気に手を差し出すルネ。
リュシアンの頭を一瞬、最悪の事態が過ぎる。
いけない――!
「ル……っ」
「あぶないっ」
リュシアンが胸まである窓枠を飛び越えようと力を込めたとき、仔犬の身体はルネの頭上にふわりと浮いた。
ユーグ。仔犬がルネにぶつかる寸前、間一髪で生け垣を回り込んだ彼が、犬を掬い上げたのだ。
「どうしてひとりで走っていかれるんですか! リヨンの紐は勝手に外しちゃ駄目だと言ったでしょう!」
腕の中で暴れていた仔犬をようやく抑え込むと、小さな主に仕える従者は常ならぬ烈しさで声を張り上げた。
「この子はルネ様よりも小さいんですよ? まだ良いことと悪いことの区別ができてないんです。紐を外して一緒に遊ぶのは、この子がきちんということをきくようになってからだと、あれほど約束しましたよね?」
従者の声は震えている。無理もない。遠目に見ているリュシアンにさえ、勢いよく飛びかかる巨体に為す術なく押し潰される幼子の幻影が見えたほどだ。
従者のただならぬ気配に、ようやく事の大きさを悟ったのか、ルネは肩を震わせさめざめと泣き始める。
自分が悪いことはわかっているのだろう。それでも仔犬と遊びたいという欲求を抑えられなかったのは、不在がちな兄に対する寂しさを、少しでも紛らわせようとしたのか。
――それにしても、少々叱りすぎだ。
ルネは聡い子だ。もうそれくらいにしてさしあげなさい、と庭向こうへ声を掛けようとしたリュシアンの耳に、
「せっかくダルマン様がくださった犬なんですから。ルネ様になにかあったら、叱られるのはこの子なんですよ?」
聞き捨てならない、不穏な名前が飛び込んできた。
「……ダルマン?」
その名は、ざわり、と胸を逆撫でする。
リュシアンは声を掛けるのを止め、引き続き自室からふたりを見守る。
ユーグは相変わらずルネを訥々と諭し、ルネはそれに嗚咽で応えていた。
「ダルマン……まさか、またルネ様になにか?」
最初、ド・アルマンと接触したのルネだ。訪れたクレールの北の森で沢に落ちたところを、たまたま通りかかったジャン・グレゴワール・ド・アルマン卿に助けられた。
不思議な巡り合わせもあったものだ、と運命の悪戯を呪っていたリュシアンに、テオドールは、それこそが奸計の始まりだった、と語った。
リュシアンが部屋に籠もってすぐ、主はド・アルマンの周辺へ間諜を放った。かの男はそれは用心深い人物で、たいした情報は得られなかったらしいが、わかったことのひとつには、森での出会いの秘密が隠されていた。
クレール領に隣接していたバシュレ侯爵の邸、その邸を侯爵が手放す原因となったのが、何を隠そうド・アルマンその人であるというのだ。
テオドールからその事実を聞いたとき、リュシアンはド・アルマンという男の周到さと執拗さに恐れを隠しきれなかった。
かつてバシュレに仕えていたユーグが、その没落の原因となると途端に言葉を濁す理由。たしかに、ジャン・グレゴワールという人物がテオドールと同程度の切れ者ならば、侯爵程度の爵位、容易に取り上げられるよう、王にはからうことも可能なのかもしれない。
しかし、“できる”のと、“実際に行動を起こす”のとはまったくの別。
ダルマンがあの犬を寄越したとなれば――なにしろ、罪のない幸せな家庭をひとつ壊してまで、クレールに近づくという目的を果たす男だ――生き物を介してルネを懐柔する、それくらいのことやりかねない。
一度命を助けられたルネは、ダルマンを微塵も警戒していない。そうでなくても子供の好奇心、目新しい動物に目が眩んでもしかたがない。
――しかし、ユーグは?
仕事に真面目なユーグが、公爵との交流という大事を主に隠しているとは考えにくかった。
テオドールに至っては論外である。生まれたばかりの仔犬に何ができるとも思えないが、突然現れた犬がダルマンの寄越したものだと知ったら、それこそ手元には置きたがらないだろう。
「ここで考えていても埒があかない、か」
気になることは多々あるが、この場合ユーグに直接訊ねるのが一番の近道。
リュシアンは意を決し、気まずい空気へ再び挑んだ。
「ユー……」
「ああっ、いたいた。もう、こんなところに!」
二度目の声を遮ったのは、生け垣の向こうから現れたメイドのマリーだった。
リュシアンは咄嗟にカーテンの蔭に身を隠す。ユーグはともかく、邸いちおしゃべり好きなマリーに詐病が知れると、いささかまずい。
おおかた、朝食の準備ができてルネを探していたのだろう。姿を隠しつつ耳だけを欹てていると、マリーのがさつな跫音はユーグとルネのほうへまっすぐ向かっていった。
「おふたりとも、とっくに朝ご飯の時間ですよ! ああもう、服をこんなに泥だらけにして! ルネ様はともかく、ユーグ様まで朝っぱらから仔犬と遊んでたの!」
「ち、違いますよぉ。私もルネ様を探して……」
「あれっ、ルネ様泣いてらっしゃるじゃない。まさかいじめたの? いい大人のくせして、犬を独り占め?」
「誤解ですってば! そんなことしてません! お、お願いですから邸中にあることないこと広めないでく」
「はいはい、もういいわ。とにかく、急いでくださいね。いま馬が到着して、旦那様がダルマン様のお邸を出られたって知らせてくれたの。今日はおふたりともこちらで過ごされるから、ちゃんと歓待の準備をしておきなさいって、旦那様直々のご命令よ」
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