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Ⅴ-3

 まだ二十歳と年若いが、メイドの中でもそこそこ古参であるマリーは、相手がたとえ主の弟君であろうと容赦はしない。  芝の上に踞ったままのルネを軽々抱き上げると、ふくよかな、温かそうな手で汚れた膝頭から土をはたき落とした。 「お兄様、またお出かけしてたの?」  見る間に綺麗になっていくズボンを、まるで魔法でも見るような目で眺めながらルネが言う。 「ええ、ダルマン様のところに。あのおふたり、最近本当に仲良しですからね。異国の従者を従えると、お互い他の人間にはわからない苦労なんてものがあるのかしら」 「マ、マリーさん」  失礼ですよ、と声を落とすユーグに、マリーはあっけらかんとしたものである。 「あら、本当のことじゃない。別にリュシアン様を奴隷だと言っているわけじゃないわ。あの方はここのお生まれだけども、周囲からは異国人として見られてる。この国でそういう人たちが暮らしていくのは大変よ。ダルマン卿も、異国人を使用人として扱うことについて、旦那様に助言を仰いだとしてもおかしなことではないでしょ」  ひとしきり土を払い落とすと、マリーはルネの小さな尻をぽん、と叩いた。 「さあ、できた。リヨンはエリーズに任せて、さっさとお食事をなさってください」  遠くから様子を窺っていた妹分のメイドに仔犬とルネを託し、その場に残ったのはユーグとマリー、そしてカーテンの蔭からふたりの話にじっと耳を傾けるリュシアンだけ。  中庭の使用人ふたりは、ルネの背中が見えなくなると、顔を見合わせて溜め息を吐いた。 「どうしたんですか、マリーさん。浮かない顔して」 「ユーグ様こそ。ここのところ顔色が悪いわ。なんだか、いつもよりピリピリしてるし」 「……すみません」  痛いところを突かれたのか、ユーグは途端に肩を落とした。 「お恥ずかしい話なんですが、リュシアン様がいらっしゃらないと、こう、どうもすべてのことに余裕がなくて……ホント、自分で自分が情けないです」 「それはしかたないわよ。私だって同じだもの」 「マリーさんも?」 「そ。まぁ、私の悩みはリュシアン様のことだけではないけれど――」  旦那様のことよ――と、マリーはいつもはつらつとした顔に、珍しく苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。 「旦那様」  聞き返すユーグの顔もどことなく、ああ、やはり、と安堵する様子である。  「ええ。ルネ様の手前、ああは言ったけど――やっぱり最近の旦那様、おかしいと思わない?」 「はぁ。それは、まぁ……やっぱりそうですよねぇ?」 「そうよ。おかしいのよ。いい?」 背の高い、栗色の髪の青年へ、ぐっと丸い顔を近づけながらマリーが言う。 「旦那様にとってリュシアン様は、すべてなの」 「すべて?」 「そう。すべてよ。お父上よりも、亡くなられたお母上よりも、ルネ様よりもずっとずっと大切なの。そんな大事な人が、ご飯もろくに召し上がらないほど弱ってらっしゃるのに、医者のひとりも呼ばないなんてこと、ありえる?」 「そ、それはおかしいですね」 「でしょ! おかしいの!」  声を張り上げるマリーの口を、横から伸びた手が慌てて塞いだ。 「マリーさん、しーっ。リュシアン様が目を覚まされますよ……!」 「離して!」  ユーグの手を振りほどき、肩を怒らせ喚き立てるマリーの紅潮した顔に、きらりと涙が光るようだ。  ユーグはぎょっと目を見開いて、頼りになる年下の同僚を宥めようと、その肩を抱く。 「この際だから言わせてもらいますけどね!」 「ちょっ、ちょっと、暴れないでくださいよ。いたたっ。叩かないでくださ……!」 「旦那様は変。絶対、変。みんな、そう言ってる」 「マリーさん。落ち着いて」 「落ち着いていられないわ、こんなの! あなたにはわからない!」  あなたは旦那様を知らないからと叫ぶマリーに、ユーグは少しばかり渋い顔をつくった。 「ええ……そうですよね。私がこんなに不安なのに、旦那様とリュシアン様をよく知るあなた方が、今の状況を不安に思わないはずがない」  マリーは、はっとして濡れた顔を上げた。  ユーグの表情の裏に、深い悲しみを感じ取ったからに違いない。  それはおそらく、ユーグのもっとも突かれたくない点だ。  しかし、ルネのこと、テオドールのこと。彼がクレールについて知り、学び、皆に溶け込む努力を続けていることを、邸の者なら誰もが知っている。 「ごめんなさい……私ったら、自分のことばっかりで」 「いいんですよ。わかってます」 「…………でも、でもね」   常の頼りなさが消え失せた、慈愛に満ちた腕の中で、マリーはいつしか年相応の可憐さ、心の脆さを晒している。 「最近の旦那様は、本当に恐ろしいの。私たちにもリュシアン様に近づくな、なんておっしゃるし、お供も付けずにいつもふらふら出歩いて。いくらご自身が領主になられて、街が平和になったからといって、万が一なにかあったらどうするの? 旦那様がお留守のあいだにリュシアン様にもしものことがあったら、私たちはどうやってあの方を助ければいいの? なにより、リュシアン様がお可哀想だわ! 旦那様を、あんなに……あんなに愛してらっしゃっるのに!」  ――夜。  自室の扉を叩く音が、リュシアンを浅い夢から引き剥がした。  もともと眠るつもりはなかった。  立っていることも、座っていることもできず、重い頭を抱えて寝台に横たわるうち、疲れ果てた身体が一時の休息を欲しただけだ。  身体を起こしたとき、くらりと右に傾いだ。ようやくおさまったはずの嘔吐感が、ふたたび喉元を駆け上がる。  深く息を吸って、それをやり過ごしていると、 「リュリュ」  いつもの優しい声が、名を呼んだ。 「起きてるのか? 朝からなにも口にしてないんだろう。果物を持ってきた。少し食べないか」  声は、なおも呼び掛けてくる。小さな物音がするのは、なにか食べる物を持ってきたのだろうか。 「鍵が掛かっている。扉を開けてくれ」 「――いいえ」  それは消え入るような返答だったが、静かな夜には充分であったらしい。扉の向こうの空気がにわかに張り詰めるのがわかった。 「どうした、リュシアン」  なにかあったのかと問う声に、見えないとわかっていて首を振る。  なにもない。  なにも、なかった。  この数ヶ月――――なにも。 「なにも……。なにも、ありません。ただ」  ただ、少し疲れてしまいました。  しばらくして、テオドールの気配は消えた。  リュシアンが眠ったものと思ったか、様子がおかしいことに気づいて、鍵を壊す用意をしていたのか。  どちらにせよ、リュシアンにはわからない。  テオドールが消えてのち、リュシアンはひとり部屋を出た。  そして、彼がその扉を潜ることは、二度となかった。

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