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Ⅴ-4

 クレール邸から森を挟んでしばらく歩けば、そこに小さな家がある。  石造りの、豪華ではないが堅固な構え。  小さな庭を彩る、美しい草花。  まるでおとぎ話の妖精が住まうような庭をもつ家に住むのは、長きに渡ってクレールへ仕える忠臣、今は邸のお抱え庭師である、ヴァローの一族である。 「――んあ?」  夜、かすかに聞こえる物音で目を覚ましたのは当主の長子、ヨハン。  二十五になったばかりの、男ぶりのいい若者だ。 「オヤジのやつ、もう起きてるのか……? 夜明けにゃ早すぎるだろう」  カーテンの隙間からは、丸々とした黄色い月が覗いている。手燭がなくとも部屋のなかを歩けるほどの光に、むしろ眠い目を眩しさから庇いながら、ヨハンは危なげない足取りで階段を下りた。  庭師の朝は早い。陽の昇る前に雇い主の邸へ出向き、朝露の残るうちに大方のかたちを整える。  庭は、邸の顔。それは、けっして主役であってはならないが、いつ何時、誰が眺めても当たり前のように美しくなくてはならない。  朝目覚めれば、美しい庭がそこにある。庭とは、そういうものである。  幼い頃から一族の長となるべく、その信条の一切を叩き込まれたヨハンは、まだ覚醒の最中に出掛けの支度をし、朝食をとりに食堂へと向かった。 「あれ?」  しかし、食堂はおろか、廊下にも人がいる気配はない。首を傾げつつ玄関と続きの納屋へ向かってみるも、綺麗に整理されている大切な仕事道具にも、人が触れた形跡はいっさいなかった。 「……まいったな。こりゃあ、寝ぼけて勘違いしちまったか」  そういえば、目覚めてから一度も時計を見ていない。物音がしたというのは気のせいで、いまは本当の夜更けなのだろう。  いい歳をして、こんな間の抜けた姿を両親に見られなくてよかったと、少し冴えた頭を叩きながら、もう一度寝直そうと階段へ向かったそのときだ。  トン、と控えめに木戸を叩く音が、暗い廊下に響いた。 「わっ! な、なんだ?」  さっきの音といい、ネズミかなにかだろうかと辺りを見廻すヨハンの耳に、もう一度、今度はたしかな意志をもって扉を叩く音が聞こえる。 「え……ええ、なんだよ。こんな時間に」  森の奥とはいえ、ここはクレール邸の一部。外からの客人が迷い込むことなどなく、訪れる者もごく限られている。  考えられるのは邸に住む使用人のうちの誰かだが、まさか、こんな時間になにか用でもあるのだろうか――。  父親を先に起こすか、まずは訪問者の用向きを聞くか。  万一、不届き者であった場合、まずはふたりを守れる自分が先に立つべきだろうと、内心ぶるぶると震える胸を宥めて、ヨハンは錠に手を掛けた。  図体は大きいが、人より肝が小さいことはちゃんと自覚しているのだ。 「は、はいはーい……こんな夜更けになにかご用――」 「ヨハン」 「ひぅぉあああああっ!」  少し開いた扉の隙間、眩い月明かりに照らされて、ぬ、と現れる白くたおやかな手に、ヨハンの可憐な心臓がぶるんと大きく震えた。肺から押し出された野鳥の雄叫びのような悲鳴が、頭を突き破ってけたたましく家中へ響き渡る。  断末魔の叫びを聞きつけたヴァローの当主エリク、そしてその妻が、手近にある農具を手に取りつつ、慌てて駆けつけた。 「どうした、ヨハン!」 「お、おやっ、おや」  扉をぴったりと閉め、さらに逞しい肩でがっちり押さえて振り返ったヨハンの唇は、がたがたと震えている。  幽霊。女の、幽霊が。女の。手が。外から、手が。  息子の声なき声をその唇から読み取ろうと、エリクが一歩前へ進み出た。 「なんだって? 女?」 「なに言ってるの、アンタ。こんな時間に、どこのお嬢さんがこんな場所へやってくるの」  そのやりとりを少し離れたところで見守っている母親は、拍子抜けしたように肩を竦める。 「おじょ、お嬢さんじゃなくて、幽霊、幽霊だよ。白い手の幽霊が――」 「はあ? 幽霊?」 「もういい、ヨハン。アメリー、お前も。下がってなさい」 「あぶ、あぶないよ、オヤジ、幽霊だよ」  ここは俺がと言いつつも、とても頼りにはならなそうな表情の息子を押しやって、エリクは重たい鋤を片手に把手へ手を掛けた。 「開けるぞ」  ごくり、と家族の生唾を呑む音を背に、ゆっくりと扉を開く。  そして――。 「……リュシアン?」 「えっ、リュシアン様?」  父親の肩越しに扉の外を覗き込んだヨハンが見たものは、白い部屋着に薄いマントを羽織っただけの、細い男の姿だった。  月明かりを背に、暗い森に浮かび上がる薄汚れた姿は、なるほど女の亡霊と言われれば、そう見えないこともない。  しかしよく見れば、それはたしかにリュシアンに違いない。  ただ、この場にいる全員が記憶している姿より、その身体は痩せ細ってしまっている。  まあ、と父子の背後でアメリーが溜め息を吐く。 「どうして、こんな――」 「リュシアン。どうしたんだ」  艶やかな黒髪を結ぶこともせず、見たこともないほど憔悴しきった義弟の姿に、エリクも人の良さそうな太眉を顰めた。 「こんな時間に、そんな姿で……他には誰もいないのか?」 「――兄さん、お願いがあってまいりました」  ぼそ、と呟く声はひどく聞き取りづらい。  エリクはリュシアンの鎖骨から窪みの続く肩を引き寄せ、乾いた唇に耳を寄せた。 「なに? なんだ。願い?」  月の満ちた湿った夜に、リュシアンの掠れた声が落ちる。 「お願いです。私を……ここから出してください」

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