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Ⅵ-1
Ⅵ
とりあえず中へ、と通されたのは食堂だった。
この部屋へ入るのはずいぶんと久しぶりだ、とリュシアンは思う。
8つでヴァローの養子となり、12のとき、この家からクレールの邸へ上がった。
それから、なんとなく再び居場所をなくしたような気がして、一度も玄関より奥へ足を踏み入れたことはない。
アメリーの運んできたワインとチーズが卓に並び、リュシアンははじめて自分が空腹であることに気づく。
とりあえずワインで唇を湿し、ほっと一息吐くと、ぼんやりとした頭に『幽霊』と聞こえたのを思い出した。
改めて自分の姿を顧みると、目に見える範囲だけでも、たしかにひどい有様だ。
「すみません……家を汚してしまいました」
低い木立の枝に引っ掛かり、裂けた部屋着の裾は泥に汚れている。
靴底から廊下、玄関へと続いているであろう足跡を目で追うリュシアンの真向かいへ、義兄が腰掛けた。
「気にするな。どうせ朝には俺とヨハンとで泥だらけにするんだ」
揺れる燭台の灯りが兄の顔を照らし、その輪郭や口元にかつての養父の面影を見て、どきりとする。
はじめてこの家へやって来た日。あの夜感じたのと同じ安堵感が、リュシアンの張り詰めていた心を優しく溶かしていく。
「ところで、さっきの話はなんだ。『ここから出してくれ』? ここ、というのは邸のことか?」
「ええ」
「理由は。なにがあった」
「それは――……」
リュシアンは言い淀み、臍を噛む。
正直にすべてを話したところで、にわかに信じてもらえないだろう。
彼らはリュシアンが長いこと病気で伏せっていたと思っている。しかし、それが詐病で、実際は本人も知らないうちに主によって軟禁されていたなどと、一体誰が想像できるだろうか。
リュシアン自身、森を抜ける途中で何度部屋へ戻ろうと思ったかしれない。
マリーとユーグの話はリュシアンの聞き間違い、もしくは彼らの勘違いであって、この逃亡が、もしもテオドールの計画の足を引っ張るようなことになったら――。
しかし、その考えを悪い意味で否定してくれたのは、邸の護衛たちだった。
彼らはきちんと見回りの役目を果たしていた。“いつもどおりに”。
彼らの動き、振る舞いからは、リュシアンが命を狙われているなどという緊張感はまったく感じられなかった。特別な命令を受けているふうでも、なかった。
つまり、そういうことだ。
テオドールは、ド・アルマンを露ほども警戒していない。むしろ互いに手を組み、リュシアンのあずかり知らないところでなにか事を進めている。
そしてその計画では、リュシアンは最初から除外されていた。
あれほど互いは対等だと、支え合う存在だと謳っておきながら。
足元から煙のように立ち上る怒りを、リュシアンは深呼吸で喉奥へ押し込める。
自分ほどではないにしろ、エリクもクレールに生涯の忠誠を誓ったヴァローの当主。
どんなかたちであれ、主の非となるようなことは、己の目でそれを見るまで信じないはずだ。
――一筋縄でいかないと、思ってはいるが。
月明かりだけを頼りに、けっして遠くはないここまでの道のりで考えた言い訳を、リュシアンは慎重に口にした。
「旦那様と、少々言い争いを――その、ヴァロー家の者として旦那様に意見するなど、身の程をわきまえていないことは重々承知しているのですが」
申し訳なさそうに、相手の出方をうかがいながら上目遣いで見上げると、兄は不審そうな目を今度は困惑に歪めた。
なにをそんなことで、とでも言いたげな顔だ。
「それは別にかまわんだろう。お前には旦那様を正しい道へお導きする役目がある。そのために、始終お側へ置いていただいているんだ。問題は、お前が邸を出たいと思うほど、旦那様に対して我慢のならないことがあったのかということだ」
「我慢、ですか」
我慢ならないと言われれば、そうだとしか答えようがない。
だが、リュシアンの気持ちを説明するためには、テオドールとリュシアンとの関係を詳らかにしなければならない。
まさか互いに想い合う仲なのだとも言えず、リュシアンが言い倦ねていると、
「まさかとは思うが」
す、とエリクの声が低くなり、妻と息子の視線を憚るように顔を寄せてきた。
「旦那様は、お前になにか無体を働かれたのか」
「なっ――!」
咄嗟に首を振るリュシアンを、またも不審な目が貫く。
「本当か?」
「本当です! 兄さん、旦那様がそんなことをなさるはずがないとわかっているでしょう……!」
「わかってるさ。たしかめただけだ。リュ――」
口を開きかけたエリクの視線が、背後に立つ息子を見る。
腕を組み、青ざめた顔をしきりに擦っているヨハンが、びくりと肩を震わせた。
「ヨハン」
「あ……ああ、えっと、部屋に戻れって?」
「いや。馬を連れてこい。一頭でいい」
「馬?」
「できるだけ急いでいってこいよ。あと、誰にも見られずに戻るんだ。わかったか?」
「え? ……ああ。わかったよ」
首を傾げながら出て行くヨハンを見送ると、エリクは、今度は妻へなにかを言付けた。 こちらも青ざめた顔をしていた妻が、夫の言葉にはっと息を呑み、急いで奥へと駆けていく。
食堂にはふたりきり、親子ほど年の離れた血の繋がらない兄と弟が残った。
「リュシアン。お前の気持ちはわかった」
「……それでは」
手を貸してくれるのかと訊ねる視線に、エリクは頷いた。
「ヨハンが連れてくる馬で、街へ出ろ。本当は一晩でもゆっくり休ませてやりたいが、しかたない。すぐにここを離れないといけないからな」
「……」
「お前も俺と同じことを考えている。だから、さっきから時間を気にしてるんだろう? 外の世界をろくに知らずに育ったお前が、外へ出るために頼れるのは私たちしかいない。それは旦那様もよくわかってらっしゃる。お前がいないことに気づけば、あの方は真っ先にここへ飛んでこられるぞ」
容易く考えを読まれてしまった己の迂闊さを悔いていると、
「エリク。あなた、これ」
大きな木箱を抱えたアメリーがふたりの前を通り過ぎ、廊下の姿見の前へそれを置く。
通り過ぎる際ちらりと見たところによれば、埃まみれの、いまにも壊れそうな箱の中にはぎっしりと衣服が詰まっていた。
「リュシアン様、ちょっとこちらへいらしてくださいな」
促されるまま、リュシアンは曇った鏡の前へ歩いて行く。
隙間なく詰められた服の中からアメリーはもっとも上等そうなな上着を取り出すと、リュシアンが口を挟む間もなく、汚れた寝間着の上へ宛がった。
「まさか、またこれを誰かに着てもらえるなんてねぇ」
どこか嬉しそうなのは、この服が彼女自身の手によるものだからだろうか。
「ああ、やっぱり。よくお似合い」
細い手首を掴み、袖の長さをたしかめながらアメリーがうっとり呟く。
「ちょっと埃かぶってますけど、まだまだ着られるわ。この刺繍は、私の家の女に代々伝わる柄なんです。これはヨハンのために縫ったんですけど、あの子、柄が気にくわないって、一度袖を通したっきりで。本当はもっと綺麗な服を差し上げたいんですけど、うちではこれが一番良いものだから」
これを着て行けということだろうか。
視線でエリクへ訊ねると、兄は兄でこの上着に深い思い入れでもあるのか、リュシアンを見、眩しそうに頷いた。
「これなら、人前に出ても大丈夫だろう。そうだ、あれは。持ってきたか」
「ええ。ここに」
アメリーが答え、箱の奥から引っ張り出したのは絹の包み。
柔らかな手触りのそれを手渡され、リュシアンがゆっくりと布を捲ると、中から蝋燭の灯りに照らされた、眩いほどの金色が姿を現した。
「これは……?」
深い蜜色。
美しく艶やかな色は、リュシアンの瞳からするりと身の内に入り込み、胸を甘く締めつける。
「旦那様の御髪でつくった“かつら”ですよ」
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