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Ⅵ-2

 髪の美しい男には、どんな女も魅了されるものなんです、とアメリーが笑う。 「とはいっても、最初にこれをつくろうとなさったのは旦那様のお母上、リリアーヌ様なんですけどね。あの方は、たったおひとりでクレールの将来を担う旦那様を、それはそれは心配していらっしゃったんですよ。だから、どんなささいなことでも旦那様の助けになればと…………たとえば、いつか旦那様が素敵な奥方を探されるとき、もしかしたらこれが役に立つことがあるかもしれないと、こうして“かつら”までご用意されてたんです。ふふ。おかしいでしょう?」  隣でエリクが小さく吹き出す。  リュシアンも想わず口元を綻ばせかけたが、ふと目に入ったアメリーの悲しげな瞳が、それをさせなかった。 「でも、あの方はこれをつくりはじめてすぐに、亡くなってしまった。こうしてできあがったものを、自分の目でご覧になることはなかった」  手の中にある豊かな髪束は、かねて流行の白金などではない、黄金をそのまま煮溶かしたような深い色合い。  彼を知る女たちは、まずこぞってこの髪色を褒め称える。  たおやかなその指に髪を絡め、美しいわと彼の耳元へ囁き、この髪色の子がほしいのと撓垂れかかるのだ。  彼はよくこの髪に、誰とも、何とも知れぬものの香りが交じり合った、醜悪な匂いを纏って邸へ戻った。  そのたび、リュシアンはそれを丁寧に洗い清めた。  穢れを落とし、真っさらになったその髪へ、何度も、何度も唇を寄せた。  それはまるで、儀式のようだった。  テオドールはいつも嬉しそうに、その様子を黙って眺めていた。 「……っ」  駆け上がる官能がぶるりと背筋を震わせる。 女を――男をも魅了するテオドールの髪。  リュシアンだけが愛することのできる、神聖な部分。  その権利をいま手放そうとしているのは、自分だ。  望めば間違いなく手に入るものを、いっときの感傷で遠ざけようとしているのも。  指に触れる手触りに揺り起こされた重く纏わりつくような感情を、リュシアンはきつく目を閉じて追い払う。  決心が揺らぎそうになるのを、必死に堪える。  いますぐ、本物の温もりに触れたい。  彼の香りを肺に満たし、口づけたい。  ――けれど、それは今ではない。 「リリアーヌ様がお亡くなりになってからは、こうして私がこつこつ残りを編んで……できあがったのは、そうね、5年くらい前かしら」  アメリーの言葉が、甘い幻想に掻き乱れるリュシアンの心を引き戻す。 「……旦那様は、ここに、これがあることをご存じなのですね」 「もちろん。私がお願いして、目立たないところを少しずつ切ってつくったんですから。でも、そのときつくったものがこんなことに使われるなんて知っていたら、旦那様は絶対に髪をわけてくださらなかったでしょうねぇ」 「なぜです?」 「あらだって、他でもない、大切な方を繋ぎ止めるためにつくられたこれが、こうやって肝心なその方を逃がしてしまう助けに使われるんですもの」  ころころと笑うアメリーに、リュシアンは目を瞠る。 「もしかして……?」  これを被って街へ出ろと言うのだろうか。  視線で問うリュシアンに、アメリーはそうですよ、とまた笑った。 「だって、リュシアン様のようにお綺麗な方が街へ出られたら、それはもう人目についてしょうがないでしょう? こうして金の髪をつけて帽子でも被っていれば、お身体も細いし、夜目には男か女かもわからなくて、ちょうどいいわ。ねえ、あなた」 「ああ」  エリクも、なにをいまさらと頷く。 「それに、街の人間にもお前を知っている者達がいる。旦那様がお前を探し始めたら、すぐ足取りを掴まれるぞ」 「でも、このような大切なもの――いいえ、やはりこの服も……お借りできません」  これには母の愛、そしてテオドールのを想う人々の気持ちが詰まっている。それを自分の我が儘のために持ち出して、もし万一のことがあってはと、リュシアンは縋るような目で兄夫婦を見た。  しかしエリクは、 「これを渡すのは、なにも姿を変えるためだけじゃない。こうして旦那様の一部を肌身離さず身につけておけば、いくらお前でも無茶はしないだろうと思ってのことさ」  旅の途中これを見れば、いやでも己の立場を思い出すだろう。  だから持っていけと言われて、 「ですが……」  それでも、迷う。  これはリリアーヌの数少ない形見の品。幼い頃に母を亡くした、テオドールの大切な思い出。  そんなものを、他人の自分などが持っていていいのだろうか。  そんなことが、はたして許されるのか。    俯くリュシアンの肩に、大きな手が優しく触れる。 「なに。すぐに戻しにくればいいだけの話さ。傷ひとつつけずにな。それと、これを」  そう言ってエリクは、今度は小さな麻袋を取り出す。  白い袋は重そうに底が沈んで、小さく左右に揺れるたび金属の擦れる音を鳴らした。 「街で3日は暮らせるだけの金を入れてある。いらないというのに、わざわざお前がヴァローのために使ってくれと寄越してくる金の、ほんの一部だ。残りはすべて使わずに取ってあるから、お前は、この金が尽きたころには間違いなく戻ってこいよ」 「……」  決まった時節に支給される給金を、リュシアンは貰うつど、すべてヴァロー家に手渡してきた。  こちらは、どうせ邸から出ることは叶わぬ身。ならば、せめて甥のヨハンが良い嫁を迎え、ヴァローの家が子々孫々つつがなくクレールに寄り添えるようにと、無理を言って受け取ってもらっていた金だ。  それを、エリクはすべて手を付けずに取ってあるという。 「お前もひとりの立派な男だ。人生についてゆっくり考える時間も必要だろう。でもな」  痛いほど強く、肩を叩かれる。  肌が痺れて、手のひらが触れる場所にじわりと熱が広がっていく。 「なにがあっても、これだけは忘れるな。リュシアン・ヴァローはヴァロー家に、そしてクレールに欠かせない人間――――なにより、旦那様の、魂の一部だ。あの方はお前を見て、お前の背中を追って育った。そんな方が、本当にお前を悲しませるようなことをするのかどうか。ゆっくりでいい。ちゃんと考えてみろ」  麻袋は問答無用で腕の中へと押し込められる。  手渡された重みに、リュシアンは兄の強い覚悟を感じた。  リュシアンの逃亡に手を貸す。それがテオドールに対する重大な裏切りとわかっていながら、彼らはリュシアンを信じ、こうして力を貸してくれる。 「……ありがとうございます。必ず、お返しします」 「ああ、ほら。もう着替えないと、夜が明けるぞ」 「はい」  渡されたヨハンのシャツ、そして借り物の上着に袖を通し、ほどけて乱れた黒髪を小さく纏める。  受け取った“かつら”を被って、これも借り物の鍔広の帽子を目深に被ると、 「……これは、驚いた」  弟の着替える様を隣で眺めていたエリクが、驚嘆の声を上げた。  リュシアンも、曇った鏡へ目を凝らし、そして驚く。  古びた姿見に浮かび上がるのは、いまいち顔立ちの判別しない、どこにでもいるような細身の青年だ。  普段のリュシアンとかけ離れた、いまのリュシアンの揺らぐ心を滲ませる、あどけない立ち姿。  この姿を見て、誰があの凜然とした“リュシアン・ヴァロー”を脳裏に思い浮かべるだろう。  しかし、なによりも驚かれたのは、 「少し顔を隠しただけで、見た目ってのは変わるものなんだなぁ」 「ええ。これじゃあ、どこからどうみても……」  そう無遠慮に呟かれるとおり、鏡に映る姿に、東国に生まれたの母の面影を感じられないことだった。  リュシアンも、その事実に驚いている。 口にこそ出さないが、内心、己の運命を呪っている。  あと少し。ほんの少し母から受け継ぐ血が少なければ、いまのこの人生はなかった。  マリユスに拾われることもなく、頼れる者はなくとも、この国の人間として最期の瞬間まで生き抜いただろう。  ――考えても、しかたのないことだ。  ぐ、と帽子を引き下ろし、震える唇を影に埋める。  “リュシアン・ヴァロー”の名を戴いた、あの日。テオドールと出会った、あの瞬間。 それまでの自分は捨てた。  もうとっくに、…………としての人生は、終わっている。 「兄さん」  弟の変わりように呆然と鏡を眺めていたエリクが、ようやく我に返ってああ、と呟く。 「少し頭を冷やしたら、きっと戻ります」 ひとりになって、考えなくてはならない。  自分がリュシアン・ヴァローでいる意味を。 いまとなってはもう現実のこととしか思えない、テオドールの涙のわけを。  そのとき、背後で靴音がした。 「オヤジ、馬もってきたぜ」  振り返れば、どうにか誰にも見られることなく馬を連れてきたらしいヨハンがリュシアンを見て、息を呑む。 「リュシアン様……だよな? その格好……」  静かな部屋に、誰からともなく小さく鼻を啜る音がする。 「ヨハン。お前も出かける準備をしろ」  目の端を赤くしたエリクがそう言うと、ヨハンはびくりと背中を震わせた。 「え、お、俺も?」 「街まで、お前がリュシアンを乗せて走るんだよ。準備をするぞ。さっさとこっちへこい」  ヨハンが父親に腕を取られ、引き摺るように歩き出した。 「さ、私たちも準備をしましょう。風が冷たくなってきましたから、ワインでも一杯、飲んでいってくださいな」  アメリーの言葉に、リュシアンは頷く。  夜明けが近い。  邸が、テオドールが目を覚ます前に――ここを出なければ。

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