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Ⅵ-3
ふたりが馬を下りたのは、街の中心を少し離れた小さな宿場だった。
人目を避けるように、灯りのない夜道を一刻ほど。
遠くに見えるなだらかな山の稜線が白く輪郭を溶かしはじめる頃、通りに並んだ市をあける商売人がちらほらと姿を現す。
途中、荷馬車が通って、ふたりはその後ろへ同じく行商人のような態を装って紛れ込んだ。
「四ツ星亭……兄さんのご友人が営んでいるという宿は、このあたりにあるのですか?」
「そうです。ここいらは、旅の行商人が積み荷を降ろすところなんですよ。クレールには、仲買人の集まる街があるでしょう? 外から運ばれてくる品物を、お邸の許可をもらった仲買人が買い取る……その街のひとつが、ここポーゼンです」
四ツ星亭は商品をすべて捌ききった行商人が、儲けた金でちょっとばかり贅沢していこう、っていう宿なんですよ――ヨハンが、なぜか得意げにそう言った。
ふたりで――馬の背にいるあいだ、リュシアンはヨハンの腰をしっかりと抱きながら――邸を出てから、どことなくよそよそしい態度だったこの血の繋がらない甥も、見慣れた景色を前にようやく緊張が解けたのか、言葉多めにリュシアンを先導する。
「ときどき庭で見かける珍しい花も、ここで?」
リュシアンといえば、普段は邸に籠もりきりでほとんど目にすることのない市井の営みに、次々と興味が尽きない。
「ええ。俺と親父が仕入れに来ます。親父はじいさんの代から通ってますから、そこで四ツ星亭のダンナと知り合ったらしいです。あ、ほら。見えてきましたよ。あの、馬が何頭か繋がれたところ」
ヨハンの指差す方向へ目をやると、薄暗い街並みに大きな影が4つ、浮かび上がっている。影は時折ぶるっと震えて、大きな体躯を気怠そうに揺すっていた。
影の方に近づけば、やがて目指す建物が現れる。
四ツ星亭。二階建ての古い建築に、不釣り合いなほど立派な厩。そしてこれまた少々仰々しい、4つ星の金細工を施した紋章楯が特徴的な宿屋だった。
「たしか、ここの主人、この時間は厩で客の馬を世話してると思うんですよ……お、いたいた。おーい、おやっさーん」
言うが早いか、ヨハンは厩の方へ走っていく。
連れてきた馬の手綱を引き取って、リュシアンがその後を追う。
広い道を塞ぐように広がっている馬たちを避けつつ、なんとか宿の裏側らしい場所へ辿り着くと、なぜか古ぼけた井戸で水を汲むヨハン、そして、腰に手を当て、腹を突き出した格好でそれを見守る、初老の男の姿があった。
「そんな手つきじゃあ、すぐへばっちまうぞ、ヨハン。忙しいって言ったのを“手伝うから話し聞いてくれ”なんて言ったのはてめぇだろう……ったく、これなら自分でやったほうが、よっぽど早く済むぜ」
「ぐ、う……こ、の桶が、重すぎるんだ、よっ!」
ガタン、と重そうな桶が水を撒き散らしながら地面に落ちる。
どうやら、この恰幅の良い男が四ツ星亭の主人であるらしい。
四ツ星亭主人は肩で息をするヨハンを、どきな、と押しやると、一抱えはあろうかという桶を軽々と担いで、奥の厨房へ引っ込んでいった。
「あっ、ちょ……話聞いてくれって、おやっさん!」
その後を蹌踉けながら追うヨハンが、しばらくして仏頂面の主人の手を引き、戻ってくる。
「おい。なんなんだ、こんな朝っぱらから! 今日はどこも取引の予定はねぇぞ。部屋借りてぇなら昼過ぎてもういっぺんきな!」
「だからぁ、急ぎなんだよぉ。それに、部屋借りたいのは俺じゃなくて、この人」
そこに待ってる人だよ、と指を差されたリュシアンは、主人の剣幕に呆然としていたところを、はっと我に返った。
突然手綱を引かれた馬が、文句を言うように鼻息を吹くのを横に聞きながら、
「あ……お忙しいところ申し訳ありません。わたくし――」
「連れ込みなら、お断りだぜ」
嘲笑とともに吐き捨てられた言葉を理解するのに、数秒かかった。
主人はリュシアンの姿を爪先から頭の先までじっくりと眺め、あらためて、ひどい汚れ物でも見るように顔を顰める。
「ここはアンタみたいな人間の来るところじゃねえ。他をあたりな」
さきに主人の言わんとすることを悟ったのは、主人の肩越しに心配そうな顔を向けていたヨハンだ。
「おい、おやっさん! なんてこといいやがる!」
頬を紅潮させ、いまにも主人に掴みかかろうとするのをリュシアンは視線で制して、
「……それは、どういう意味でしょう」
一歩、踏み込みながら訊ね返した。
冷え切った朝の空気が瞬く間にもう一段低まりそうな視線を真っ向から受けて、主人はまったく怯む気配がない。
「“そういう”意味だよ。わかってんだろ? この庭師の坊っちゃんみたいな、なんだかんだスレてねえヤツはだませてもな、世の中のキレイなモン、汚ぇモン見て生きてきた俺たちは絶対にだまされねぇ。アンタの、その服の下に隠した上等な身体から『悪いお遊び』の匂いがプンプンしやがる。おい、庭師の倅よ。悪いこたぁ言わねえ、コイツはやめときな。かかあ一筋の親父さんが泣くぜ」
「ばっ……てめぇ! この人がそんなっ」
ヨハンが拳を振り上げる。
「やめなさい、ヨハン!」
「……っ、でも、こんな言いがかり……!」
行き場のない拳を握りしめ、歯を食いしばって地面を蹴るヨハンにリュシアンは、大丈夫です、ともう一度、今度は優しく声をかけた。
「あなたの気持ちは嬉しい。しかし、ここにいるご主人が私をどう思おうと、それはこの方の自由です。私が“そういう”人間ではないと、いまこの方に証明するすべはありません」
「そんな、リュ――」
じ、と咎めるような視線を受けて、ヨハンは慌てて口を噤む。
「す、すみません」
「いいんですよ。ですが、ご主人」
くるりと振り向いたリュシアンが鋭い視線を向けると、
「……なんだよ」
四ツ星亭主人が、地を這うような低い声で答える。
「私は商いこそしたことのない身ですが、あなた方の苦労は多少想像がつくつもりです。あなたが、そういった方々を毛嫌いする気持ちも」
「知ったふうな口をきくんじゃねえ」
アンタに俺の何がわかる、と鼻白む。
「“彼女たち”は、けっして金払いの良い方ではないでしょう? もしかしたら、宿代を踏み倒してそのまま姿を消した……なんてこともあったのでは? そうでなくとも、貸した部屋に“客”を連れ込まれれば、それはそれは他の泊まり客の迷惑になったことでしょうね」
「だからなんだ。てめぇは違うってのか?」
「ええ、違います。ですが、彼女たちのことならわかりますよ。私は幼い頃、それこそ連れ込み宿のような、娼婦の巣窟に暮らしていましたから」
ヨハンの息を呑む音がする。
母を亡くしたリュシアンをマリユスが拾ったのは、荒れ果てた裏路地にある、ほとんど娼館と化した安宿だ。
マリユスだけが知るその事実を、リュシアンは初めて自ら口にした。
「私の母は、表立って働くことのできない身体でした。幼い私を抱えて身を売ることもできなかった彼女は、娼婦たちの身の回りを世話することで、わずかな賃金を得ていました。私は母が世話する女性たちと親しくしていたわけではありませんが、母は何度も私に、すべての女性が望んで男たちの慰み者になっているわけではないと教えた。彼女たちのなかには、心から苦しんでいる人がたくさんいると。ですが、いくらそんな生活を続けていても、いつかは彼女たちが安全で、裕福な生活を手に入れられるという保証はどこにもないのです」
「だからなんだ。ヤツらを哀れめってかい。可哀想な女たちだから、優しくしてやれって?」
「そうは言いません。ですが彼女たちは、娼婦である前にひとりの人間です。あなたが出会ったすべての娼婦が、あなたが思うような人間ではない。そして、ここに」
取り出すのは、エリクから渡された麻袋だ。
「私がこの宿に逗留するのに充分な金があります。これを前金としてあなたに渡しましょう。これを受け取った時点で、私はこの宿の客です。あなたはただ、私に部屋を一部屋貸してくだされば、それでいい。もちろん、この宿に滞在される誰にも、迷惑はかけないとお約束します。それでも不安とおっしゃるなら、ここにいるヨハンに、今すぐこの宿を貸し切れるだけの金を持ってこさせましょう。どうです?」
「……」
「私はひとりの人間として、この宿に泊まることを所望します」
「…………」
主人は答えない。口を引き結んだまま、リュシアンをじっと見つめていた。
「この宿は」
「……なんだ、なにか文句が」
「この宿は、とても良い宿です。預かった馬の扱いも丁寧で、建物も、隅々までよく修繕されている。あの生真面目で、人の良いエリク・ヴァローが自信をもって薦めてくれただけのことはある」
「…………何が言いてえ」
「褒めているだけですよ。私は、誠実な人間が好きです。しかし、宿の主人であるあなたが私のような人間をどうしても置いておきたくないとおっしゃるのなら、しかたがありません。行きましょう、ヨハン」
「えっ」
ふたりのやり取りを呆けたように眺めていたヨハンは、突然声をかけられ目を丸くした。
「い、いくって、どこへ」
「きまっているでしょう。ここにいても時間の無駄ですから。この方のおっしゃるとおり、他の宿をあたります。あなたを振り回して申し訳ありませんが、私はこれ以上誰かに迷惑をかけるわけにはいきません」
「あ……ちょ、ちょっと、待っ」
「………………ああ、もう! ちくしょう、わかったよ!」
くるりと踵を返したリュシアンへ大股で歩み寄った主人が、大きく舌打ちをして麻袋を引ったくった。
「おい、庭師の倅! 上の部屋にお客さまをお連れしやがれ! 角の、一番日当たりの良い部屋だ!」
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