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Ⅵ-4
「一番上等の部屋が空いててよかったです。あの親爺、リュシアン様に失礼なこと言ったばかりか、もし安い部屋なんかをあてがったりしたら、いますぐ戻ってとっちめてやるところでしたよ……っと」
ささくれ立った木の窓を静かに押し開け、ヨハンは部屋の空気を入れ換えた。
爽やかな朝の風がリュシアンの頬を撫で、寝ずの移動にこれまたささくれ立った心が束の間癒やされる。
四ツ星亭主人がリュシアンのために用意した部屋は、二階の角部屋。いつもは旅の商人のなかでも上客だけが泊まることができるという、主人自慢の部屋らしい。
早朝ということもあってか宿の中はしんと静まり、ふたりは他の泊まり客の眠りを――他に泊まり客がどれほどいるのかは、わからないが――妨げないよう息を潜めて、あてがわれた部屋へと入ったところだった。
「物騒なことを言うものではありませんよ。安心して休めることができれば、私はどんな部屋でもかまわないのですから」
部屋の中央に堂々と置かれた巨大な円卓に、石造りの暖炉。時折、靴の裏に感じる底の抜けそうな木の感触にひやりとするが、やはり部屋のいたるところに主人の気遣いを感じられる良い部屋だ。
もとが不精な性質で、多少埃が立とうが黴臭かろうが、身体を横たえる場所さえあれば、それでいい。
むしろ清潔に保たれているぶん、自分の部屋よりよほど“まし”だと笑うリュシアンの手の中に、
「それに、あのご主人はやはり、商売に対してはよほど真摯な心をお持ちの方のようですね。この部屋を借りるのに必要なぶんだけを袋から抜いて、残りは返してくれました」
半分ほどの重さになった、例の麻袋がある。
置いてくれるのなら有り金すべてやってもかまわないというのは紛れもない本心だったが、ひとり残される身としては路銀が空になることへの不安があっただけに、主人の気遣いが心底ありがたい。
礼を言ってなおその誠実さを褒めるリュシアンに、四ツ星亭亭主はさっと渋面をつくったが、その口元が少々緩んでしまうのは隠せなかったようだ。
さっさと部屋に入りな、ウチはメシは出さねぇぞ――くい、と顎で指す先に、いかにも旅の商人が好みそうな、派手な酒場が一軒あったのを覚えている。
「これで2、3日は苦もなく過ごせそうです」
「…………本当に、大丈夫ですか?」
「なにがです?」
ヴァローの家から持参した柔らかな毛布を寝台に広げ、ヨハンが振り返る。
「いくらリュシアン様がしっかりなさっているといっても、ここはお邸の外ですよ? 危ないヤツも、危ないこともたっくさんあります。俺、心配です」
「クレール直下の治安は良いと聞きましたが?」
「それは……ほかと比べりゃ、そうなんですけど」
言い淀む声に蘇るのは、つとめて忘れようとしていた胸の痛みだ。
まだ新しい生傷を、無理矢理抉る痛み。
クレールを脅かす魔の手――これまでさんざんテオドールに聞かされてきたことが、あらためて嘘だったのだと実感する。
テオドールはなにを思い、リュシアンを騙したのか。
いつかは露呈する嘘を吐き続ける理由をここに到る道々考えもしたが、どうしてもわからない。
「でも、悪いヤツってのは大なり小なり、どこにでもいるんですよ。金かっぱらったり、酔っ払いだってゴロゴロいるし。そんなところにリュシアン様をひとり置いて、もしもこのことがあったらって」
旦那様に顔向けできねぇどころか、ヘタすりゃ俺ら家族全員殺されちまいます――冗談めかして笑うヨハンだが、その目はいつになく真剣だ。
「……旦那様には、私が罪を償います」
リュシアンがヴァローの家を頼ったのは、主の怒りを逸らす方法を他に思いつかなかったからもある。
他の誰でも、リュシアンの逃亡に手を貸したと知ったら、きっと主はその者を許さない。
そのなかで唯一、咎を受けずに済むと思われたのがヴァロー家の人々だった。
リュシアンが生きている限り、忠誠心厚い従僕をテオドールが手に掛けることはない。そう踏んでの、ある種打算的な考え。
そして、その思惑はきっと外れない。
「兄さんの言うとおり、旦那様はきっとあなた方のもとを訪れるでしょう。もしかすると、もう家は検められているかもしれない。だから、万一のときは遠慮なく私の居場所を旦那様に伝えてください。私はすぐ邸へ戻って、どんな罰でも受けます。あなた達は私に泣き落とされてしかたなく手を貸したのだと、旦那様にはそう言って許していただきますから」
「そんな……水くさいこと言わないでくださいよ」
俺たち“家族”じゃないですか、と肩を落とすヨハンのその腕を、リュシアンはそっと抱く。
「感謝しています。とても。兄さんには約束通り、頭が冷えたらすぐに戻ると伝えてください。姉上にも、たくさんの感謝を。私の我が儘に付き合わせてしまって、申し訳ないと」
その後、しきりにこちらの体調を気にする甥を邸へ戻し、疲弊した身体を寝台へ横たえた。
ほとんど眠ることができなかったことと、緊迫した中での移動が、疲労となって身体に重くのし掛かる。
窓の外はにわかに人の気配が増え、早い市が開かれようとしているようだ。
ざわつくリュシアンの心をその喧騒で塗り潰すかのような、笑いと怒号の飛び交う、おそらく彼らにとっては日常の光景がはじまろうとしている。
この悲しみは、きっと彼らには届かない。
主に謀られて、失意のあまり邸を飛び出した従者であると名乗れば、彼らはいったいどんな顔をするだろう。
――そんなくだらないことで、安全な寝床を放り出して来たのかい?
――そんなことより、明日のメシ代をどうやってひり出すかのほうが、こっちは大事なんだ。ひやかしなら、とっとと帰りな。
遠い昔、目の前で不幸のうちに命を落とした女達も。
我が子を残し、再び故郷の土を踏むことなくこの地で短い人生を終えた母も。
店と家族を守り、精一杯日々の暮らしを営む人々も。
今の自分より、よほど“生きている”。
彼らはいつだって、現実をまっすぐ見据えている。
「ふ……ははっ」
誰の目もない、自分を取り繕う必要もない部屋で、リュシアンはひとり笑う。
「……私は、愚かな人間だな」
頭の中を隙間なく埋めていた重く、固い鬱屈した思いが、ひとつ息を吐くたびに柔らかく溶けていくようだ。
姿を偽れば、混血だと忌まれることもない。
自分を愛してくれる人がいて、自分を守ってくれる家族がいた。
長いこと“クレール”という殻に閉じこもっていたおかげで、夢にまで見た穏やかな幸せを、いつしか窮屈な檻のように感じてしまっていたのか。
誰かを求める心。
ただ生きるだけの毎日から抜け出すことができた幸せを、独りよがりな失望で衝動的に手放そうとした。
テオドールの心がわからないのは当然のことだ。
彼は“私”ではないのだから。
どこまでいっても交わらない。交われない。
交われないからこそ――人は求めあうのだ。
「貴方はいま、なにをしていますか……?」
目を覚まして、まず自分の部屋を訪れただろうか。
返事がないことに戸惑い、一瞬でも、この命が潰えたことを脳裏に思い描いただろうか。
今ごろ、私の無事を祈っているだろうか。
見上げる低い天井に、黒い洞がぽっかりと空いている。
その瞬間彼が感じるであろう絶望が、底のない闇のように上からリュシアンを見下ろしている。
彼が慌てふためいて取り乱すさまは一向に想像できないのに、彼が自分の屍を腕に抱き、己の胸に躊躇いなく剣を突き立てる姿は、なぜか容易に思い浮かべることができた。
そうだ。それは、必然。
自分と彼とのあいだにある、約束された未来。
……いや、それは“過去”かもしれない。
なぜか、ふとそう思った。
自分はどこかで、その光景を見たような気がする。
この深い絶望を、すでにこの身は一度味わったのではなかったか。
それは、自分の記憶だろうか。
それとも、別の誰かの?
「なに……」
思い出さなければ。
この身を裂いた、刃の冷たさ。
燃えるような傷の痛みと、抱きしめる腕の熱さ。
遠ざかる意識の中、自分はたしかにこう言ったのではなかったか。
“許してくれ”と、お前が言うのなら。
――この消えない呪いを、お前に。
「あなたは、だれ……?」
す、と呼吸が落ちていく。
眠い。
長く、暗い階段を、地階へとゆっくりと下るように、
意識が――――。
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