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Ⅵ-5

――――さん。……きてるか、バルドーさんよ」  こちらの気配をうかがうような、遠慮がちの呼び声が遠くのほうから聞こえる。  バルドー。  リュック・バルドー……それが自分に与えられた仮初めの名であることを思い出すと、心地よい眠りに沈んでいた意識が、急激な血の流れとともに勢いよく脳へと駆け上がった。  突然の覚醒に激しい鼓動で抗議する胸を撫でさするように宥め、リュシアンは一度深呼吸してから身体を起こす。 “かつら”と帽子は寝台の端に転がっている。  慌ててそれらを身につけると、震える足で扉の前へ向かった。 「はい。なんでしょう」  倒れ込むように開いた扉の先には、予想通り、四ツ星亭主人が立っている。  主人はリュシアンの皺だらけ服、よれた帽子を呆れたような目で眺めて、 「なんだ、そんな格好で寝てたのか。もう夕刻だぜ」 いいかげん腹も減ったろう、と肩を竦めた。  窓の外を見ると、たしかにさっきまで朝焼けだったはずの窓むこうが、いまは綺麗な夕焼けに染まっている。  どうやら、相当長いあいだ眠っていたらしい。 「……ご主人、その格好は?」  主人は厚手の外套、そして禿頭をすっぽりと覆い隠すウールの帽子を身につけている。  朝はほころびだらけのシャツ、そして穴の空いたズボンといった、いかにも安宿の主人といった格好だったが、こうしてめかし込んだ姿を見ると、四ツ星亭がこの界隈で『上等な宿』と呼ばれる理由がわかる気がした。 「あ? ああ、そうそう。ちと悪いんだがよ。急な会合でこれから宿を空けなきゃなんねぇんだ。いつもはカミさんに留守を任せるんだが、あいにく今日は出かけてていねぇもんだから」  くい、と親指を肩の後ろへ振るのは、要するに留守のあいだ外に出ていろ、ということなのだろう。 「どうせアンタ、メシもまだだろう。すぐに戻るつもりではいるんだが、そのあいだにどっかよそで食ってきてくれよ」 「それは、かまいませんが……急な会合とは、なにかあったのですか」 「いや、なにかって――別にアンタにゃ関係のないことで…………あ」  とそこで、渋い顔がなにかに気づいたように、はっと目を瞠った。 「そういやアンタ、今朝お邸を出たって言ってなかったか? たしか、昨夜は一晩お邸に世話になったって」 「え……ええ。それがなにか」 『リュック・バルドー』は、古くからクレールと交わりのあった没落貴族の裔で、このたび長年の塩田での働きが認められ、作った塩を自ら商う権利が認められた――ということになっている。  ヨハンが預かって主人に渡したエリクの筆による親書には、リュック・バルドーなる人物が商いの許可証を受け取りに邸へ上がったこと、その際テオドールと意気投合し、昨夜は特別に邸へ宿を借りたことが、いかにももっともらしくしたためてあるはずである。  ここまでの道々、ヨハンが父親の言葉をたどたどしく辿りながら説明してくれたのをなんとか思い出しながら、リュシアンは頷いた。 「じゃあ、知らないか? クレールでちょっとした騒ぎがあったのをさ」  これはいまチョロッと聞いた話なんだが、と主人は声を潜める。 「お触れを受け取ったヤツの話によると、どうも旦那様付きの従者が突然姿を消したらしいんだ。ほら、アンタ昨夜見なかったか、黒髪の……ちょっと他のヤツと顔立ちの違う、美人の男をさ」  ひく、とリュシアンの眦が引き攣る。  急な会合とは、やはりこのたびの出奔についてだったのだ。  嫌な予感にもしやと思って訊いてはみたが、予想とは少し違って、まだ詳しい居所は割れていないようである。  それにしても手が早い――とテオドールの行動力に内心歯噛みしていると、 「やっぱり知らないか。こりゃ、リュシアン様が重い病で伏せってるって話も、あながち嘘じゃなかったのかもなぁ」  毳立った帽子の上から頭をぽりぽりと掻きながら、主人が首を捻る。  「その……方が病に伏せっているかどうかは知りませんが、少なくとも私は見ていません。もし見かけたら邸へ申し出るようにと、そういうお触れなのですか?」 「たぶんな。あ、いや、その話をいまからしにいくのさ。まぁ俺は庭師と付き合いがあるから、リュシアン様……っておっしゃるんだが、あの方を一度この目で見たことがある。それで呼ばれたってわけなんだが、そんときは俺も初めてのお邸で、柄にもなく緊張しちまってなぁ。あんまり覚えてねぇんだよ」  どんなだったかなぁ、遠目にもどえらい美人だったのは覚えてるんだがなぁ、としきりに首を傾げる主人を見る限り、どうやら状況はそれほど悪くないらしい。  リュシアンの普段の姿を知るという主人も、本人が目の前にいて気づかないほど記憶が曖昧。  黒髪で異国ふうの顔立ち。商人の集まる街だ――そんな人間、ここでは掃いて捨てるほどいる。  兄の想定がどこまで及んでいたかはわからないが、当面この街で動くぶんには苦労はしなさそうだった。 「とにかく、そういうわけだから。悪いな」  もはや“猥りがわしい”に対する不信感はどこかへいってしまって、とにかくいまはお邸の一大事だからと張り切る主人にかたちだけの同意を示し、リュシアンは急いで四ツ星亭をあとにした。

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