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Ⅵ-6

“テオドールはリュシアンの居所を知らない。” “そして、リュシアンのこの姿は、街の人間をしても異国人の血が混じっているようには見えないらしい。”  たとえ重大なこのふたつの懸念が払拭されたとしても、邸の外が心安まる場所ではないことに変わりはない。  帽子の影も濃く落ち、擦れ違う人々の目がなにを映しているのかはっきりとしない薄暮の街を、リュシアンはあてもなくただひたすら彷徨う。  通りは一日の終わりを迎えてますます活気づき、大きな商売をつつがなく終えた豪商達の群れが、あちらこちらで今日の成果を餌に女達を誘う声がする。  金持ちの商人目当てにこの街を訪れる女も多いのだろう。きゃあきゃあと姦しく徒党を組んで横目に男の財布の重さを量っている女達を見ると、四ツ星亭主人の苦労も目に見えるようだった。  金さえあれば、貴族としての地位も名誉も買える時代。  少しでも暮らしが豊かであれと願うのは、誰もが同じなのだろう。  しかし、クレールでは少々事情が異なる。  生きやすさや、他領にくらべて比較的職に就きやすいクレールでは、領主の庇護が人々の生活の保証に大きく割り振られているぶん、権力者への金の取り締まりが厳しい。  言い換えれば、力を持つのはクレールのみ、その他の者は等しく領地を支える領民として扱うと、あえての権力の一極集中がおこなわれているのだ。  この施策に異を唱えているのが、一部の豪商、豪農だった。  彼らはクレールの領地維持のため己の資財を擲つ代わりに、領内での一部自治権を認めるよう、長年邸へ訴え続けている。  それを悉く突っぱねているのが代々の当主である。  一部の民が資財を投じ、領地の守りを堅固なものにする。  たしかにそれは理想的で、恒久的な財政難に苦しむクレールにとって好ましい一面も持ち合わせてはいるのだが、しかし、その要望をどうしても受け入れられない事情がクレールにはある。  言わずもがな、“呪い”である。  外貨をもたらす商人たちや、金を持て余した権力者たちは、自然、持て余した金を己の享楽にあてる。  クレールでこうした歓楽街が栄えるのも、そういった理由だった。 「……呪い、か」  クレールを縛るのは、いつだってあの“呪い”だ。  領民が力を持てば、領地、そして領主が富む。  しかし、クレールにはそれが許されない。 “絶えず、栄えず、  最期の血の一滴まで、その魂を我に捧げよ”  クレールの当主は代々、建国の王が残したというこの言葉に縛られ続けている。  かつて暴君として君臨していた父王を打ち倒し、新たな国を築いたという建国の王。初代のクレール当主は彼の友であり、王を助け、国の礎をともに造り上げた。  それまでの名を捨て、“クレール”という家名と広大な領地を与えられた男は、無二の友、そして若くして『名君』の片鱗を見せ始めていた王を、ある日。  ――――その手に掛けた。  ぞ、と背筋が凍って、リュシアンは雑踏のなか足を止める。  思い出すのは眠りに落ちる寸前、見た幻だ。 『この消えない“呪い”を、お前に』  あのとき、自分の屍を腕に抱くテオドールの姿が、にわかに別人へとすり替わった。  抱かれた己の屍は、血に濡れた若い男の姿へ。  凶刃を手に、俯く顔の口元へうっすら微笑みを浮かべた男は――。 「まさか、あれがクレールの……?」  クレールの初代の当主。テオドールの祖先だとでもいうのか。  ……ばかな。  ふと頭を過ぎった考えを、リュシアンは自ら一笑する。  あれが“呪い”の生まれた瞬間だとして、なぜ自分がそんな光景を覚えているというのだろう。  リュシアンが記憶しているのは、知識としてのクレールの凶行。かつて、人知れずそんな惨劇が繰り広げられたという事実だけ。  クレールの罪――弑逆の咎。  幸い王は一命を取り留めたものの、背に癒えぬ疵を負い、数年後、結局はその疵がもとで命を落とした。  その事実を知ったときの倉皇を、リュシアンはいまでも昨日のことのように鮮明に覚えている。  マリユスや代々の当主が残してきた数々の忠義の記録を見る目も、そのときを境に大きく変わった。  しかし、その贖罪の理由を自分はどのようにして知ったのだったか。  そもそも、クレールが王を討たんとした事実は固く秘されている。  当主を失い、残された伯爵家の人々は、なぜか無罪。  王を弑せんとし、自らも命を絶った男の子孫へ残されたのは、逆賊としての汚名ではなく“子々孫々まで飼い殺し”の呪言だった。  王の死後、“呪い”は当時まだ幼かった王太子と、王に近しいごく一部の人間だけに託され、いまではその存在すら、霞のように消え失せようとしている。  長年クレールに仕えた者達の誰も、“呪い”の理由を知る者はいなかった。こと“呪い”の話題になると、彼らは一様に眉根を寄せ“なぜクレールだけが、このような目に”と密かに王を罵った。  ならば、なぜそれをまったくの部外者である自分が知っているのか。  酒に酔ったマリユスか、あるいはテオドールが寝物語に口を滑らせたか――。  どちらにしても、そのとき脳裏に浮かんだ惨劇の空想が、いやに現実味を帯びた幻想となって夢に現れたとしか思えない。  しかし、いつ。  一体、誰が私に。  朱く染まった山の稜線へ視線を投げ、記憶の底を浚っていたところで、  「――おっ、と」  突然、どん、と背後から肩を押され、蹌踉めいた。 「おい、邪魔だ。なに道の真ん中で突っ立ってやがる」  そのまま酒臭い息へ押されるように、瞬く間に道端へと追いやられる。

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