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Ⅵ-7

 押し流された先は、軒先に小柄な老婆がひとり腰掛けるだけの小さな露店。  香水瓶に薬瓶。埃を被った琥珀色の酒瓶に浮かぶ得体の知れない生き物が目に入ると、リュシアンは思わずその場で渋面をつくった。  うらぶれた佇まいを見れば、どうやらお世辞にも流行りの店とは言えないらしい。  面倒なことになる前にと、焦げたような、つんと鼻につく怪しい匂いから遠ざかろうとした瞬間。 「いらっしゃいまし」  さきほどまで眠ったように背を丸めていた軒先の老婆が、突然顔を上げて声を掛けてくる。 「なにか、お探しですかねぇ」  埃っぽい街に似合いの、いまにも消え入りそうな嗄れ声。  皺に埋もれた両目はもうあまり見えてはいないのだろうか、店の前に立つリュシアンを客と勘違いしたらしかった。  「あの……ご婦人。こちらは?」  立ち去りかけの身体を翻し店先を覗く素振りを見せると、老婆は、見ての通り薬屋でございますよ、と枯れた肩を小さく揺すった。 「北の国の賢者がもたらした不老長寿の妙薬。南の蛮族が使う、どんな女も立ち所に虜にする薬……そういったありとあらゆる国の、ちょっとそこいらでは手に入らない選りすぐりを、ここへずらりと並べておりますよ」  今日は一体どんなお薬をお望みで? ――訊ねられて、リュシアンは並べられた品の想像以上のいかがわしさに、また顔を顰めた。 「ずいぶんと変わった品ばかりですね」 「ほほ。ええ、ええ。ここはそういう店ですからねぇ。とても“まとも”な店じゃあお目にかかれない逸品ばかり。しかし、お客さま。馬鹿にしちゃいけません。こういうものというのは、意外と“効く”んですのよ」  使い方と使う相手さえ間違えなければ、と老婆は皺だらけの手を機嫌良く揉んだ。  商いに関しての規制の程度というものは、日頃からテオドールも頭を悩ましているところではある。  娼婦というものが半ば公然と認められている国において、“その手”の怪しげな薬というものはたいそう重宝がられるのだ。  死者が出る、薬によって血が流れる……そういう血生臭い話になればすぐさま手も打たれようが、話の種になる程度の薬効しか認められないようなものは、いまでもこうして市井に横行しているのが現状である。  この老婆も、はるか昔にはこういういかがわしい薬を使って男達を手玉にとってきたのだろう、手招く姿が年を重ねてなお、ぞっとするほど色っぽい。 「たとえばこれ。いま王族や貴族に流行りの、東国の香なんですけどねぇ」  そう言って老婆が奥の棚から持ち出したのは、葉模様の透かし彫りが美しい手のひらに乗る程度の木箱だった。 「香……ですか」  直接口に含まないぶんいささか怪しさの薄れる品に、思わず手が伸びる。  艶ややで大きさの割りにずっしりと重みを感じるのは、ランプの灯りにぬらぬらと光る黒檀の渋い色合いのせいだろうか。  軒先に並ぶ黄ばんだ紙に包まれた薬とは違って、この木箱だけはあきらかに店の格式に見合わぬ上等品だった。 「この箱も東国から?」  表面の彫り物を目の高さに掲げ灯りに透かすと、細かな装飾の奥に黒い塊が見える。  振ればかさかさと軽い音がするが、なにかの葉を乾燥させて固めたものか。  かつての母もこの箱に刻まれるような意匠を目にしていたのかと思うと、見慣れない紋様にもどことなく感ずるものがある。 「お代に箱の価値も含まれておりますよ。これはおもに女性に送る品なんですけれど」 「それほど良い香りなのですか?」 「まぁ、それもありますけれどもねぇ」  ほほ、と口を覆う仕草にどことなく含みがある。 「香の本当の価値は、その効能なんですのよ。その葉に火をつけて煙を吸えば、たちまち女を蕩けさせる……とっておきの“媚薬”になるのです」 「び――」 “こういうものというのは、意外と“効く”んですのよ”。 「あ」  びくりと震える手から滑り落ちた箱は、真っ逆さまに地面へと落ちる。  慌てて拾い上げるが、すでに遅い。箱の、もっとも薄く彫られた葉脈を模した部分が綺麗に折れて、そこから葉が少量、足元に散った。 「ああ、ああ。これはいけません」  老いた身体のどこにそれほどの脚力があるものか、老婆は慌てて駆け寄り、リュシアンの手から壊れた木箱を奪い取る。 「す……すみませ」 「貴重な葉なんですのよぉ。一つまみ手に入れるのも、それはもう大変で……困りましたねぇ。次に東国から行商人がやってくるのは、ずいぶん先のことになるというのに……」  たいへんたいへん、とこれ見よがしに溜め息を吐きながら、老婆は皺だらけの手で箱を大事そうに撫で回す。 「どういたしましょう、お客さま。こうなってしまっては中身ごと買い取っていただかないと。見たところ、良い服を着てらっしゃるようですけれど……お代をいただけるような、たしかなお後ろ盾はおありなのでしょうねぇ?」  後ろ盾、という言葉を使うとき、老婆の目がぎらりといやらしく光る。  彼女も四ツ星亭主人と同じく、最初からリュシアンが我が身をひさいで暮らしを立てているものと見ていたのだろう。  湧き上がる羞恥と怒りが目の前をさっと横切るが、しかし今はそのような場合ではない。 「申し訳ありません。すぐにお代はお支払いいたします。箱と中身、揃っていくらですか」  そう言って慌てて麻袋を探る手を、したたかな老婆は見逃しはしなかった。 「そうですなぁ。30はいただきましょうか」 「30……」  ある程度ふっかけられるものと覚悟していたリュシアンも、これにはさすがに閉口する。  宿の支払いが、3日で金貨7枚。30といえば、エリクに渡されたすべての金を足したところで到底足りない。 「どうなさいました、お客さま。まさか、お手持ちがないとおっしゃる?」  顔色を変えたリュシアンを侮蔑のこもった眼差しで見つめ、老婆は吐き捨てるように言った。 「……ええ。実は」 「いいえ、言い訳はけっこうですのよ。いくら手持ちがないとおっしゃっても、こうして品はもう壊れてしまったのですからねぇ。いますぐどうにかして払っていただくか、明日お邸にでも引き渡すか……まぁ、アタシのようなか弱い婆にはお客さまを捕らえることはかないませんから、そこいらの腕の立つ者にちょいと来てもらうことになりますけれど……しかし、あれですねぇ。そうなると、そのゴロつきどもにお金を用立ててもらうほうが、お客さまなら早いかもしれませんわねぇ」  一体何人を相手にしたら、お代にまで手が届くかはわかりませんがねぇ、と下卑た笑いが辺りに響く。 「……お代はきっと払います。ですが、少しだけ待っていただけませんか。3日、いいえ、2日のうちには必ず用意しますから」 「そんな言葉、どうして信用できるものですか。婆はね、ただでさえ明日をも知れぬ身なんですよ。ああ、胸が痛い。この先の身の振り方が心配で心配で、いつもの痛みがぶり返してきたみたい。ああ、アンタが金を払ってくれさえすれば、いますぐ胸の薬を買いに行けるんだがねぇ」  徐々に礼を欠いていく嗄れ声に、周囲には瞬く間に人だかりができる。  あのババア、またやってやがる……可哀想に、よりにもよってあの店で騒ぎを起こすなんて……。  人々の口から飛び出す憐憫の声に、なお心細さが増す。  ――弱った。  金を用立てるにはヨハンの助けがいる。しかし、彼が再び姿を現すのは約束通り3日後だ。  ここは大人しく邸に突き出されるのがもっとも安全な道だろうかと、リュシアンがいよいよ覚悟を決めた、そのとき。 「すまないが、ご婦人」  突然、リュシアンの頬を芳しい香りが掠めた。  気配のないところから、す、と大きな影が差す。  驚いて顔を上げると、いつの間にかすぐ隣に、恐ろしく背の高い、痩せた男が立っている。  リュシアンと同じく帽子を目深に被り、少々季節はずれの分厚い外套をきっちりと着込んだ男は、 「ここに金貨30枚がある。これで、その香を箱ごと売ってはもらえないだろうか」  にわかには信じがたいことを、その朗々たる低い美声でのたまった。

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