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Ⅶ-1
Ⅶ
「ちょっと……」
「いいから。黙ってついておいで」
声を落とし耳元で囁く声に、リュシアンは思わず口を閉じた。
露店を離れてしばらく。
道を塞ぐように広がる酔客があちらこちらにあるのを見ると、露店街を抜けた先は酒場の建ち並ぶ通りのようだ。
陽気な歌と陰鬱な弦の響きが辺りを物悲しく包むなかを、男は長い脚をさらに大股で脇目も振らず歩いていく。
人混みに紛れてさえ頭ひとつ飛び出す男の歩幅に、リュシアンはついていくだけで精一杯だった。
口を挟む暇すらない。
ようやく我に返ったのは男が灯りの少ない路地へ入り込もうとしたときで、夢のような喧騒からようやく離れてはじめて、自分が置かれた状況を呑み込めたのだった。
『大方、アレがあの男の“旦那さま”なんだろうねぇ』。
ふと店を去り際の、老婆の言葉を思い出す。
あのとき男が老婆に支払った額は、金貨で35枚。
約束の代金30枚に、迷惑料を5枚上乗せて。笑顔で一枚一枚老婆の手に金貨を落としていくのを、周囲の者達は固唾を呑んで見守っていた。
老婆が喜ぶのは当然だろう。思わず手に入れた大金をそそくさと袋に詰め込みながら、それまでの陰険さが嘘のように相好を崩し、折れ曲がった腰をリュシアンと男に向けてさらに深く折った。
その様子が、黄昏の商人街に異様な光景として映ったのは言うまでもない。
人垣を掻き分けて颯爽と現れた男は、衆人環視のなか躊躇いなく大金を払った。
それでいて事情を訊ねるでもなく、当然のようにリュシアンの肩を抱いて歩き出した。
上等な上着に、大金。
口数の少なさと、手慣れた仕草。
『お後ろ盾は』――。
『手近な男にお金を用立ててもらうほうが』――。
……まさか、この男。
「待ってください!」
途端に噴き上がる嫌悪感から、リュシアンは思わず男を突き飛ばした。
闇色の外套をはためかせて、男は数歩蹌踉めく。
「なんだ、突然」
その表情は相変わらず帽子の影に隠れて見えないが、リュシアンの抵抗に思わぬ戸惑いを感じているようだ。
「一体どこへ向かっているのです」
どこへ行くつもりだと訊ねても、やはり男の答えははっきりしない。
帽子の庇に長い指を入れ、額を掻いた。
「とくに何処ということもないよ。静かなところでキミと話ができたらと」
静かなところ。
ぞ、と二の腕に走る怖気を、リュシアンは手で擦る。
やはり男は、リュシアンをどこかへ連れ込むつもりなのだ。
「話ならばここでもできるでしょう。私は逃げも隠れもいたしません」
「……逃げる? なぜ」
低い声は道行く人々の笑い声を縫って、まるで耳元にしっとりと囁くように響く。
ずいぶんと落ち着いているようにも見えるが、声の張りや肩を抱く腕の感触からして、おそらくまだ若い。
よくてテオドールと同じか、若干年上というところだろう。
その若者に肩を抱かれ、いいように歩かされたことをリュシアンは恥ずかしく思いながらも、
「この礼は必ずいたします。あのご婦人にも説明したとおり、あと3日もすれば連れが迎えに来ますから、そのとき箱の代金と、あらためて謝礼を」
そう言うと、男は帽子の奥でなにかを考えるふうだ。
先ほど感じたように、よくよく見ても男の身なりは悪くない。
むしろ身につけているものひとつひとつは、とても平民とは思えない一品ものだ。
物腰の柔らかさからして、遊び慣れた田舎貴族の子息か、余所からやってきた豪商の一人歩きといったところ。
どちらにしてもリュシアンを娼婦のようなものと勘違いしているのなら、話してみて分かり合えないこともないかもしれないとリュシアンは胸を撫で下ろす。
あとは3日後、ヨハンと合流して彼に本当の身分を明かしてもらえばいい。
それともあの老婆のいうとおり、やはりこのまま邸に突き出してもらうか。
この男を相手にもっとも安全な方法はどれかと思案するリュシアンを尻目に、男はまたも飄々と驚くべきことを口にした。
「さっきからキミはなにを言っている? 別に礼などいらないんだが」
「……え?」
「当然だろう。友を助けて金をもらうヤツがどこにいるんだ?」
キミと私の仲じゃないかと当然のように男が言うのを、リュシアンは咄嗟に受け止めきれない。
――仲、とはどういうわけだ。
もしや自分が記憶していないだけで、目の前の男と自分とは以前どこかで会っているのだろうか。
男はリュシアンを一夜の相手にしようとしたのではなく、単なる顔見知りを助けようとしていたのか。
だとすれば親しげな様子も、気安い語り口も説明がつくが――。
「だいたい、なぜこんなものに手を出した?」
戸惑うリュシアンの前にそう言って男が差し出すのは、例の媚薬を収めた箱だ。
「よく見なさい。どう見ても『本物』だ。なぜ手持ちがなかったのかは知らないが、まったくそれが幸いした。私以外の誰かにこんなものを持ち歩く姿を見られたら、キミなどすぐ手近な安宿にでも引きずり込まれているところだった」
かさかさと軽い音がするのが、男の『本物』という言葉をかえって禍々しく感じさせる。
『本物』ということは、やはりそれそのものに人の淫らな性質を呼び出すなにかが含まれているということなのだろうか。
そんなものが一瞬でも己の手の中にあった事実が、あらためてリュシアンの背筋を凍らせた。
“いかがわしい薬”は、たしかにこのクレールに横行しているのだ。
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