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Ⅶ-2
「ところで」
男はひとつ咳払いをし、幼子へ言い聞かせるように言った。
「これは私が預かろう。キミにとっては不服だろうが、キミにこれを持たせているとろくな事にならなそうだか、」
「ええ。かまいません」
答えると、男は少々面食らったようだ。
痩せた撫で肩が、気が抜けたように、すとん、と落ちた。
「いいのか」
「もちろん」
もちろん、異存はない。
「“それ”の処分をしていただけるのならば、むしろありがたい。私にそのようなものは必要ありませんので。しかし、お代はお代。たしかに払います。壊れた箱の代金も含めて、おそらく相当に足元を見られていると思いますから」
「……だが、それではキミが損するばかりじゃないか。品も私、代金も私となれば、キミが私にこれを贈るようなものだ」
「それこそ、迷惑料と思っていただいてけっこうです。まあ、現在ほとんど手持ちのない私にそのようなことを言われても、にわかには信用できないでしょうが……」
「信じるよ。信じるとも。……ただ、ひとつ釈然としない。あれほど享楽的で短絡的な性質をもつキミが、せっかく手に入れた貴重な遊び道具をみすみす手放すとはどういうことだ? まさか熱でもあるのか?」
それなら様子がおかしいのも頷ける、と額へ伸びてきた手を、リュシアンは半身になってさっと躱した。
「熱などありません。その点に関しては、我々の認識のあいだに多少食い違いが生じているだけです」
「食い違い?」
「ええ。どうやら、あなたは人違いで私を助けてくださったのだと思います。私は普段、あまり多くの方と知り合う機会がありません。そして、その数少ない顔見知りの中に、あなたのような方はいません」
「なんだって!」
到底信じられないといった様子で男は一歩退いた。
高いところにある肩が、少々滑稽なほど震えている。
「キミ、冗談がすぎないか? 私とキミはもう二十年来の仲だぞ」
男の驚きは、むしろリュシアンを確信へと導く。
リュシアンには二十年どころか、手放しで友人と呼べる仲の者すらいない。
この、どこにいてもすぐ誰とわかるような特徴的な背格好を、物覚えの悪い方ではない自分が忘れるはずがなかった。
「安心していただいてけっこうですよ。二十年来の友を見間違えたというあなたの不名誉が、そのご友人に伝わることは、このさき一生ありませんので」
それでもなお、信じられない、と呟く男の腕を引いて、リュシアンは酒場の灯りの漏れる通りへ引き返した。
庇の下。道行く人々からは蔭になった場所で、被っていた帽子を取り去る。
帽子の隙間にしまい込まれた偽りの髪がこぼれ落ちて、男が眩しさに目が眩んだか、はっと息を呑む。
「これで納得していただけますか」
男からは頭ふたつほど下のところに、リュシアンの白い相貌がはっきりと見えるはずだ。
よく見ろ、と上目遣いで訴えるのを、しかし、男は首を傾げたまま見下ろしていた。
「……いや。どこをどう見ても、私のよく知る顔にしか見えない」
――目でも悪いのか、この男は。
「そんなはずはない。よくよくご覧になるといい」
そうまで言われるとリュシアンも躍起になって、ますます男へ顔を寄せる。
呆けたまま少しも屈んではくれない長身に腹を立てながら、少し踵を浮かせる。
「ああ。見せてくれ」
男の指がリュシアンの細顎を掬い上げた。震える爪先を見てか、腰を支えるように引き寄せる。
鼻先を甘い香りが掠める。
影の奥にはじめて見えた男の双眸は、瞬く睫毛が音を立てそうなほどに長い。
通りすぎる人々のひそひそとした囁き声を背に聞いて、リュシアンはようやく近すぎる男との距離に気づく。
黄昏の酒場通り。寄り添うように身を寄せ合い、ひとつ帽子の影に顔をかくしたふたりの男の姿は、道行く者達にどう映るだろう。
途端に背中を、ぞく、と熱い疼きが舐める。
ここにないはずの視線が、胸の奥の方からリュシアンを責め苛んでいた。
見ず知らずの男に抱き寄せられ、間近に瞳を仰いでいる。
万一、こんな姿を見られでもしたら。
彼は、けっして自分と男を許さないだろう。
我を忘れ、黙したまま烈火のごとく激昂するに違いない。
二度とほかに触れぬよう、リュシアンを人目の届かぬところに閉じ込めて。
逆らう気など起きぬよう、両手を固く縛りつけて。
――そして彼の気の済むまで、この身体を……。
「っ……、もう、いいでしょう。離れて」
どくどくと熱く脈打つ首筋を宥めるように指で擦りながら、リュシアンは男の胸を突き放した。
「待ってくれ。暗くて顔がよく」
なおも追い縋る手を、これ以上は無意味だとすげなく払い落とす。
「では訊ねますが、ご友人の名は? 私は――リュック・バルドー。どうです、あなたが知るのと別の名でしょう。名も違って、当の本人も認めていないのですから、別人に違いありません。それとも……窮地を救っていただいた方に、このようなことを申し上げるのは大変心苦しいのですが……ご友人の話、それ自体が嘘ということは? 私を騙して、金か、その品を手に入れようとしていらっしゃるとか」
後退りつつ捲し立てれば、男は行き場のない手をこちらへ伸ばした。
「そんなことするものか。友人の名はフランソワ。たしかにキミのいう名とは違うが、私はただ、キミがフランソワでないという確たる証拠がほしいだけだ。私は彼の友人でもあるが、彼の父君にその世話を頼まれてもいる。彼には多少奔放なところがあって、周囲の誰もが彼のために日々気を揉んでいる。私もそうだ。ただ、もし彼の身になにかあって、万一それが、いまキミを見逃したことによるものだとしたら、私は生涯この瞬間を悔いることになる。彼は私にとって、とても大切な友人なんだ」
頼む。もっとよく顔を見せてくれ。
男の弁はますます熱を帯びていく。
その声音にも、しつこく食らいつくような姿勢にも、嘘があるようには思えない。
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