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Ⅶ-3
一体、この男は誰だ。
男の友人“フランソワ”。男の口ぶりからするに、彼が貴族か、それに準ずる裕福な家の出であることは間違いない。
リュシアンとテオドールが、主従の関係にありながら気安く接する者同士であるように、男もまた友人の目付役として、彼の動向一切に日頃から気を配っているのだろう。
それ以上に、男からは“フランソワ”に対する深い情のようなものを感じる。
これほど執拗に食い下がるのも、リュシアンと友とのあいだになにかしらの関わりを感じているからなのではないか。
しかし、私には心当たりなど――。
そこまで考えて、リュシアンは、はたと思いつくことがある。
それは自分と“フランソワ”との、容姿の酷似。
男は当初、真に自分と“フランソワ”とを取り違えていたように思えた。男自身、まさかここまで知人と似通った人間が存在するなどと、夢にも思っていなかったようにも見えた。
他人のそら似といえば、そうなのかもしれない。
しかし、もしそうでないとしたら。
思い出すのは自らの出自だ。
リュシアンの母が商人として訪れたこの地で身籠もったのは、とある貴族の子だった。
その貴族と、かの“フランソワ”とのあいだに血の繋がりがあれば、リュシアンと彼の容貌が似ているのも一応の説明がつく。
まさか、とは思う。
幼い頃は母に隠され、長じてからはクレールに囲われて育ったリュシアンが、はじめてひとり外の世界へと出た瞬間、偶然にもそれまで何の手掛かりも得ていない己の出自に辿り着くなど、あまりに“出来過ぎている”。
しかし、その出来過ぎた状況は、極めて危うい状況だとも言えた。
リュシアンの母が生まれたばかりの我が子を抱き、まだ身体も万全ではない状態で囚われていた邸から逃げ出したのは、リュシアンの存在が父となる者にとって邪魔でしかなかったからだ。
混血の、しかも拐かして無理矢理手篭めにした奴隷の子など、生まれたところで後継にもならない。
リュシアンと同じような境遇に生まれた子供たちは生まれてすぐどこかへ売られるか、もしくはその場で処分されるのが関の山。リュシアンがそれを免れたのは、すべては母が子を産んだばかりの身体を押して、当時もっとも安全と思われた場所まで逃げたからだ。
事実、彼女はそのときの無理が祟って残りの人生を病のうちに過ごし、死んだ。
死。
いまこの瞬間も、リュシアンの立場はなにも変わらない。
この長身の男にとっては単なる友の生き写しでしかないが、もしリュシアンの出生に関わる者がフランソワの一族のなかにあれば、充分身内の汚点となり得るこの身を放っておくはずもない。
――死。
脳裏を愛しい男の顔が過ぎる。
自分は死ぬのか? 殺される?
この、名も知らない男に見出されたがために?
自分勝手に行方を眩まして、最期は誰にも知られることなく命を終えるのか。
「キミ、ずいぶん顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
俯くリュシアンの顔を男が覗き込む。
帽子の奥から覗く瞳が松明の明かりにちらりと見え、リュシアンは男の瞳が深みのある灰色であることに気づく。
たしかに気分は悪かった。腹の中が空っぽだからかもしれない。
思考のすべてが悪いほうへばかり向かって、まるで頭が働かない。
熱に浮かされたように足許がふらついた。
「どこか座れる場所を探そう。辛いようなら医師を呼ぼうか。このあたりに住む医者はすでにみな酔い潰れているかもしれないが、それでもいないよりは……」
「いりません。私は、もう行きます」
休めば多少はましになるだろう。宿に戻ればなにかしら食べる物もあるかもしれない。
なにより今は早々に男の前から立ち去りたくて、リュシアンはゆらゆらと覚束ない足取りで歩き出した。
男に対する恩義は、なぜか意識の外へ追いやられている。
一歩でも前へ。どこかゆっくり休める場所にいきたい。その一心で歩いて行く。
「待ちなさい」
しかし当然というべきか、男はなおもリュシアン追ってくる。
「そんな調子でどこまで行くつもりだ。宿のあてはあるのか?」
「貴方には関係ない」
「関係なくはないさ。何度も言ってるだろう。もしキミが――」
「違うと言ってるだろう!」
突然の剣幕に、男も、通りかかった人々も何事かと足を止める。
肩で息をするリュシアンと、行き場のない手を彷徨わせる男の滑稽な姿を、すわ痴話喧嘩かと遠巻きに眺めている。
突き刺さる好奇の目。
羞恥と怒りで頬が、首筋が燃えるように熱い。
「私は“フランソワ”じゃない! 貴方のことも知らない! 私はリュシアン……リュシアン・ヴァローです! これ以上私に関わろうとするなら、人を呼びますよ。ここで、大声で、貴方が私を拐かそうとしていると皆に聞こえるように」
「なにを言ってるんだ、キミは。なにをそんなに興奮して――」
「気安く触れるな!」
振り上げた手は強く男の胸を突いた。
男はわずかに後退るものの、それでも不様には蹌踉めかない。
体勢を立て直し、こちらを哀れむようにじっと見つめる姿がますますリュシアンの激昂を煽る。
もう幾度となく触れられた。
肩を抱かれ、顎を掴まれ、首筋を撫でられた。
――気持ち悪い。
リュシアンはじっとりと湿った手のひらを、上着で拭う。
そこには男の感触がはっきりと残っている。
見た目に反してしっかりと鍛え上げられた胸の固さ。腰を抱いてなお余りある、長い腕。
視界の端でゆらゆらと松明が揺れる。夜はますます更けていく。
近くの空に見えていた月が、いつしか厚い雲に覆われていた。
湿った匂いが雨の気配を運んできて、そこにむっとするような熱と油の燃える匂いが混じるのが不快でしかたがない。
なにをそんなに興奮している?
そんなもの、リュシアン自身が訊きたかった。
全身の肌という肌がざわめいている。頭のてっぺんから爪先まで、さざなみのような悪寒が絶えず走っていく。
服を脱いで、いますぐ身体を掻き毟りたい。肌の下を虫が這い回るような、このおぞましい感触から逃れたい。
気持ち悪い。
腹立たしい。
「テオ……!」
助けて。
怖い。一体、この身体になにが起こっている?
どうすればこの苛立ちは治まる。
目の前の男を殴ればいいのか。
いや。
それだけじゃ足りない。
この男を屈服させたい。
打ち倒して、征服して、跪かせ忠誠を誓わせたい。
二度と逆らわないと、その頬を何度も打ち据えたい。
「ちがうっ」
おぞましい光景を頭から振り払う。
恐怖だ。
目の前の男に、いま自分が感じているのと同じだけの恐怖を与えなければ気が済まない。
なぜ。なぜそんなことを思う?
なぜこの男を前にすると理性が保てない?
自分が自分でなくなりそうだ。
快楽に身を任せている、あの恍惚とした瞬間によく似ている。
もうなにもかもがどうでもよくなって、衝動のままに押し流されていくのを止められない、あの瞬間に。
気づけば涙が頬を伝っていた。濡れた顎に張りつく蜜色の髪の感触がまた不快だった。
いつしかふたりの周囲には人が大勢集まっている。リュシアンの剣幕を肴に酒瓶を抱えたまま野次を飛ばす者もいるようだ。
いまにも叫びだしそうなのを必至に堪えるリュシアンを前に、しかし、男は不気味なほど冷静だった。
松明に照らされた帽子の奥で、男の顔は穏やかに微笑んでいるようにさえ見える。
「――――その顔は、なんだ」
「なに、とは?」
男は笑っている。
見間違えではない。妄想でもない。薄い唇が、たしかに酷薄そうに嗤っている。
リュシアンは確信した。
この男は敵だ。
異常なまでの感情の昂ぶりが、なによりの証拠。
この男は、自分に“なにか”をしたのだ。
「なにをした……貴様、私に一体なにを……!」
「リュシアン様!」
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