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Ⅶ-4

 人混みの、さらに遠く。  姿も見えないところから、よく知った声がする。 「……ヨハン?」  それはたしかに今朝方別れたばかりの甥の声だった。 「リュシアンさまっ。その男から離れてください! いますぐ!」  ふ、と理性が蘇る。  そうだ。呆けている場合ではない。いますぐ――――。 「ほら、むこうの彼がなにか言っている。ああ……いますぐ:逃げろ、だそうだよ」 『逃げろ』。  男の口からその言葉が飛び出した瞬間、リュシアンは踵を返して駆けだした。  背後からヨハンの声が追いかける。 「あ、そっちは……! くそっ! お前らどけよっ! リュシアン様こっちです! そっちへ行っちゃだめだ!」  俺から離れちゃだめだ、と叫ぶ声はリュシアンの耳には届かない。  身体の変調は、いまや五感すべてに達していた。  全身がこれ以上ないほど敏感になっている。人の声も、耳元を過ぎる風の音も、すべてがいつもの比ではない強さでリュシアンへと迫ってくる。  鼓動は苦しいくらいだった。息をひとつ吐くたび、服に包まれた背中の皮膚に熱が走って、ざわざわと粟立った。  がむしゃらに走る自分が、一体どこへ向かっているのかもわからない。  なんとはなく覚えのある路地をいくつか横目に見た気がする。が、ただでさえ慣れない場所でその記憶は心底頼ない。  とにかく、男の手の届かない場所へ。  大通りへ出て、馬車か、馬を。  ヨハンの『逃げろ』という言葉を信じて、リュシアンはまず邸に戻ることだけを考えた。  途中何度も足を縺れさせ、誰彼問わずぶつかった。  蹌踉けた爪先が向いたほうへ角を曲がり、一息ついた先は少しだけ開けた通り。  暗いところから突然、転がり出るように飛び出したリュシアンを受け止めたのは屈強な男の背中だ。  衝撃を感じて振り返る男は、いて、とさして痛くもなさそうに呟いた。 「おいおい。ずいぶん派手にぶつかったけど、お兄さんケガは――」  ケガはないかい、と男がその場に立ち止まったリュシアンの顔を覗き込もうとしたとき。 「おおい、火事だぁ!」  叫び声とともに、耳をつんざくようなけたたましい警笛が男の背後から闇夜を貫いた。 「うわっ」  驚いたのは男と、周囲の人間である。  狭い路地のひしめく場所で火に追われてはたまらないと、周囲にさっと緊張が走る。 「誰かぁ。火が見えるかぁ」  誰かが問えば、男の頭上から「すぐそこだ」と声がした。  顔を上げると、手燭ひとつを持った影が屋根裏の窓から顔を出し、すぐそばの通りを指差す。 「あっちだ。ローランの店じゃないか」 「ローラン? すぐそこじゃないか。火なんか見えないぜ」 「たいしたことはない。ほんのさ。おい兄ちゃん。誰か2、3人つれて消しに行ってやんな」  突然の指名にも男は、ああ、とひとつ頷いて気前よく上着を脱ぐ。  脱いだ上着を顔見知りらしい女に預けて、背後にいるであろうリュシアンへ振り向いた。 「なあ、ちょっと人手がいるんだ。お兄さん、非力そうだが後片付けくらいはできるだろう。ちょっと手を貸してくれよ…………おい、お兄さん?」  だめよ、とリュシアンの頭上から優しい声がする。男の上着を抱えた女だ。  女は上着を小脇に抱えたまま、その場に膝を付いたリュシアンを抱きかかえた。 「見て。このお兄さん、いまにも気を失いそうよ。身体も震えてるし、歯の根も合ってない。あんた、さっきぶつかったの見てたわよ。なにがあったの」  言外に責められた男は途端に、ああん、と肩を怒らせる。 「そんなに強くはぶつかってねぇさ。さっきチラッと見たときも、綺麗な顔がこんなふうにぐちゃぐちゃだったよ。危ねぇクスリでもやってんじゃねぇか」 「もう、どうしてあんたはいつもそうなの! たんに具合が悪いんでしょうよ。そんな人なら、なおさら手伝いなんてできないわよ。ほら、あんたはさっさと火が広がる前に行きなさい!」  女が追い払うように手を振ると、男は、女は面の良い男にはすぐ良い顔しやがる、と悪態をついて走り去った。  走るあいだにちらちらと後ろを振り返るのは、女が男の意中の人だからか。  リュシアンはその女の腕へもたれ掛かり、目を伏せている。  白い顔が血の気が引いてさらに青白くなり、薄い唇は小さく震えていた。 「ね、大丈夫?」  気遣う声も届かない。  顔を顰め、額に脂汗を滲ませて、なにかに耐えるように拳を握る。  事実、リュシアンは己の感覚と闘っていた。  悪寒にも似た感覚の鋭さは、もはや制御できるものではない。  壁に打ちつけた肩の痛みや、転んで擦り剥けた膝の鈍痛も、まるでそこから血が噴き出しているかのようにひどく感じる。  一番いけないのは耳鳴りだった。  火事だ、と誰かが叫んだような気がするが、そのあとすぐ背後で鳴り響いた警笛がリュシアンの耳を奪ったのだ。  もう耳元で呼び掛ける女の声すら、ようやく聞き取れるほど。すぐそばを火元へ向かって走り抜ける若者たちの跫音も、どこかで自分を探してくれているであろうヨハンの声も、当然聞こえない。 「たす……けて……」  譫言のように手を伸ばすリュシアンを宥め、女は必死に背を擦る。 「大丈夫よ。いま医者を呼んでもらったわ。ね、あなた名前は言える? 見かけない顔よね。どこから来たの?」  誰か知り合いは。  他に痛むところは。  ようやく聞き取る声に、安堵よりも焦りが募る。 「ヤツ……男、が」 「男? それってあなたの知り合いなの?」  違う。  あの男が来る前に、逃げなくてはいけないんだ。 “テオドールを呼んでください”  そのたった一言が、口に出せない。 「彼は私の友人ですよ」  ――ああ。  来てしまった。  耳が聞こえずともわかる。  研ぎ澄まされた嗅覚が、男から発する芳しい香りを嗅ぎ取った。  女はリュシアンを男に引き渡したのだろう。一瞬の浮遊感があって、長い腕に抱き上げられたのを悟る。  袖口から強く、あの香り。  鼻から、す、と入り込むそれに、ざわめく胸がなおさら熱を増した気がした。 「彼は心も体も繊細にできていてね。火、という言葉に驚いたんでしょう。世話をかけました」 「いいのよ。迎えがあってよかったですわ。それにしても……あなた、もしかして貴族さま? お礼の代わりと言ってはなんですけど、お名前をうかがってもよろしいかしら?」  私はカトリーヌ。次に会うときは一緒にお酒でも飲みたいわ、と冗談交じりの媚びが飛ぶ。  薄れていく意識の中、男の笑う吐息がリュシアンの首筋を擽った。 「かまいませんよ、お嬢さん。私は」  ジャン・グレゴワール・ド・アルマン。  公爵です。  このことは、私とあなただけの“秘密”ですよ。

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