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Ⅷ-1
Ⅷ
素肌に冷たい絹の感触がある。
私は、また旦那様の部屋で……。
身体の隅々にまで纏わりついた気怠さを呆れ半分、面映ゆさ半分に苦笑しながら、リュシアンは冷たい寝具の上に寝返りを打った。
昨夜もまた意識を失うまで愛し合い、そのまま主の部屋で一晩を明かしてしまったのだろう。
絹の擦れる音が聞こえる。閉ざした瞼の向こうはまだ闇だ。
「……旦那様?」
今日は抱いたまま眠ってくださらなかったのですか――いつもは身体を清め、そのまま朝を迎えるまで離してもくれない逞しい腕が、どこか胸苦しい、切ない気持ちで目覚めた今日に限ってはなかった。
それどころか、すぐ隣にいるはずの体温が感じられない。
泥のように手足に張りついた微睡みを振り切り、リュシアンは目を開けた。
だが、すぐにそれが無意味だと気づく。
目を開けた先には一切の光が断たれた世界が広がっていた。
いや、広がっているのかもわからない。リュシアンの視界は両目のすぐそばで突然闇に覆われ、途切れている。
黴臭い石壁の匂いがする。出口がないのか、どんよりと澱んだ空気は流れることなくゆらゆらとその場を漂っている。
それは“死”の匂いだ。
生きる物をその身に内包することをとうの昔に止めた、死んだ部屋の香りだった。
つん、と閉塞感に耳が詰まる。
時折走る耳鳴りが、ここが夢の世界ではないと頭の奥に囁く。
――そうだ、耳が。
全身の怠さ。耳鳴り。波のように、遠くのほうから次々と記憶が押し寄せてくる。
自分は男の手に落ちたのだ。
なにか卑劣な――おそらく、男の季節外れの外套の袖に仕込まれた、何かしらの薬によって。
男はあのとき何度もリュシアンを抱き寄せた。
その際袖から香った芳しい香り。あの香りがリュシアンの五感をひどく鋭敏に変えたに違いない。
男が“媚薬”とよぶものの正体もそれと同じか。
感覚を過敏にし、強い刺激を与えて理性を奪う。与えられる感覚に支配された者は、なすすべなく目の前の人間に――。
「なにをしているんだ、私は……!」
逃げる途中で転んで擦り剥けたのだろう。なにも身につけていない身体のあちこちがひりひりと痛んだ。
それ以外に痛みはない――おそらく、穢されてもいない。
もしこの身体を弄ばれた事実があるのなら、いますぐにでも死を選んだものを。
「……いや」
男の狙いがわからないいま、自ら命を絶つのは早計だ。
ヤツの真の狙いがリュシアンではなくテオドールなのだとしたら、きっと、この命をもっと効果的に使うときがやってくる。
そのときまで、死ねない。
胸に固く誓って息を潜めた。
耳を澄ますと、先ほどまではなかった人の気配をかすかに感じる。
もう一度、今度はしっかりと周囲を手探りで探ってみる。
視覚はあてにならない。むしろ、いまの自分に視覚があるのかすら定かではない。とにかくあたりは暗闇で、頼れるのは己の覚悟とあるかどうかもわからない幸運だけ。
その運を引き寄せられるかどうかも、リュシアンの行動ひとつにかかっていた。
寝台の端から端。傍に花台らしき丸い台があったが、花瓶のように砕けば刃物になるようなものはないらしい。もちろん鈍器となりうる燭台も置いてはいない。
しかたなく花台の足を掴んで引き寄せた。木製の小さなものだが、ぶつかれば多少の物音は立つだろう。
慣れない逃亡に軋んだ腕をなんとか持ち上げ、手に持った花台を見えない壁に向かって叩きつける。
壁は意外とすぐ近くにあったらしい。枯れた木が割れる音と、あっ、という小さな声がどこからか聞こえた。
ぐったりと、まだ意識が戻ったばかりだというふうを装って、寝台へ倒れ込む。
どこか頭上のほうで、きい、と音がして、しばらくすると音がしたのとは別のほうから光が差した。
両目とも見えている。内心胸を撫で下ろすかたわら、リュシアンの胸を緊張が走る。
「……あの。お目覚めですか」
滑りの悪い滑車の音とともに開いたのは、リュシアンの足元からずいぶんと離れたところにある扉。
薄目を開け、いま目覚めたばかりというふうにゆっくりと顔を上げると、ぼうとした手燭の光に小さな人影が浮かび上がった。
ぼやけてはいるが、その形は少年のようだ。
橙色の光に照らされた部屋は、少々変わった形をしていた。
リュシアンの眠らされていた寝台は部屋のもっとも奥まった場所にあって、壁はやはり石壁。細長い部屋にはその寝台と、先ほどリュシアンが放った花台以外なにも見当たらない。
そこは到底、人の住めるところではなかった。
おそらく地下。それも普段は通風口すら塞がれているような、頑丈な造りの地下牢だ。
「あなたは?」
扉から半身を覗き込ませたまま、こちらのようすをじっとうかがっていた少年は、リュシアンが声を掛けるとびくりと肩を震わせた。
「大丈夫ですよ。身体が痺れていて動けない。なにもしません」
まだ12かそこらのあどけない少年だ。
――馬鹿にしている。捕らえた男を縛りもせず、見張りにこんな少年ひとりを寄越すとは。
いつになく自暴自棄な気分のまま鼻を鳴らしたリュシアンを、少年はまだ遠巻きに眺めている。
小さな灯りを頼りに部屋を検分するらしいが、見えているのは足元くらいのものだろう。すぐに諦めて、恐る恐る訊ねてくる。
「……音が、しました」
「近くにあった花台に手が触れてしまったのです。すみませんが、元に戻していただけませんか」
投げた花台は寝台からはだいぶ離れた場所に壊れて転がっている。が、少年は見えていないのか、それとも確かめる勇気がないのか、部屋の中へ足を踏み入れようとはしない。
「あの、まだ脚が?」
「ええ。こうして身体を起こすのが精一杯です」
答えると、少年はようやくほっとしたように長い吐息を吐いた。
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