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Ⅷ-2
「旦那さま、いません。お部屋、出られません」
そんなもの、見ればわかる。
衣服を剥ぎ取られていることといい、眠らされていた場所といい、男がリュシアンを善意で保護したわけではないことはあきらかだ。
「あの。あなた」
「な、なんですか」
少年が肩をびくりと震わせる。ひどく怯えた様子が、瞬間、リュシアンの気勢を削いだ。
「先ほど“旦那さま”と言いましたね。あなたの主人とは一体誰なのです。あと、いまは何時ごろなのでしょう。私はどれだけの時間眠って――」
矢継ぎ早に訊ねると、埃だらけの空気が乾いた喉に突き刺さる。
爆ぜるようにせり上がる咳を必死で抑えていると少年は、今度は躊躇いなく駆け寄ってきた。
「だいじょうぶ、ですか」
「……え、ええ。すみません。喉が」
思えば、もう長いこと水も口にしていない。
度重なる恐怖と怒りが喉の渇きすら忘れさせていたのだろう。先ほどからのひどい目眩も、単に薬の影響ばかりとは思えない。
「まってて」
しばらくリュシアンの背を擦っていた少年は、そう言うと扉の向こうに消えた。
ふたたび暗闇に取り残された心細さを目を閉じて耐えているうちに、今度は跫音が滑車の音を引き連れて戻ってくる。
「あの、これ……これしかなくて」
少年が運んできたのは、木の皿をいくつか載せた配膳台だった。
大ぶりの肉と野菜が煮込まれたスープ。透明のものは水だろうか。どれも硝子ではなく、木で作られた底の深い皿に注がれていた。
蝋燭の灯りにゆらゆらと立ち上る香気がリュシアンの飢えた身体を刺激したが、それよりもまず注意を引いたのは、配膳台の把手を握ったまま立ちすくむ少年の顔立ちだった。
「あ――」
思わず声を上げると、水の入った皿を手にとった少年が小さな頭を傾げた。
「なに、ですか?」
短く刈り込まれた巻き毛と、奥まった紅茶色の瞳。褐色の肌はつやつやと照り輝いて、給仕服の裾からのぞく手首は細いが、肌に張りがあるからだろうか、極めて健康そうに見える。
しかし――その顔はどう見ても。
「あなた、もしかして」
そのとき、軋んだ扉の向こうからひとりの青年が現れた。
「イェマ」
『兄さん』
ほ、と安堵の表情を浮かべる少年を、青年は同じく紅茶色の双眸で睨めつける。その目は、き、と向きを変えてリュシアンを見た。
『イェマ。勝手にこの男に近づくなって言っただろ』
聞いたとこのない、異国の言葉。
リュシアンは彼らの会話をただ黙って眺めるしかない。
『でも、やっと目を覚ましたんだよ。もう3日も食べてない。このままじゃ死んじゃうよ』
『死ぬもんか。ブレトン先生も大丈夫だっておっしゃったろ。それよりも、目を覚ましたのなら真っ先に旦那さまへお知らせするべきだ』
『でも、旦那さまはお出かけ中で――』
『じゃあそのまま閉じ込めておけ!』
ふたりが言い争うのを、リュシアンは呆然と眺めるしかない。
彼らの口から飛び出す異国の言葉は、リュシアンの見立て通り――彼らがこの国の生まれではないということ以外の情報をもたらしてはくれなかった。
彼らは正式な、一目で上質なものとわかる給仕服に身を包んでいる。青年のほうは口調こそ荒いものの、如才なくリュシアンの様子をうかがう様子といい、真っ直ぐ伸びた背筋といい、相応の教育を受けているものと思われた。
『だいいち、3日もなにも口にしていない人間に、いきなり肉の塊を出すやつがあるか。……もういい。コイツの世話は俺がする。お前は旦那様のお食事の用意をしろ。そろそろ戻られる頃だ』
『……ごめんなさい』
『これくらいでいちいち肩を落とすな。旦那様が心配なさるぞ』
肩を落とし去って行く小さな後ろ姿を、青年は溜め息とともに見送った。
「あなたの弟ですか」
リュシアンの問いに返ってきたのは紅茶色の冷たい一瞥だった。
くるりと踵を返して部屋を出ると、しばらくして今度は皿がひとつ載ったきりの配膳台を携えて戻ってくる。
戸惑うリュシアンの前に、ずい、と台が差し出される。食べろ、ということなのだろうか。リュシアンは皿を手にとり、中身をたしかめた。
湯気の立つ深皿になみなみと注がれたのは芋をすり潰し、湯で溶いたものらしい。乳白色のねっとりとしたスープには匙が添えられておらず、こちらもまたリュシアンの抵抗を予想してのことらしかった。
匙のないことに躊躇いを覚えるとでも思っていたのか、目の前の深皿の縁が直接紅い唇に触れると、青年は大きな目をぎょっと剥いた。
リュシアンは一気に中身を飲み干す。
スープは適度に冷めていて、肉の煮汁も混じっているのだろうか、瞬く間に全身へ力が漲っていくのを感じる。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったですよ」
口の端に残った白いスープの痕を指先で拭うと、青年は頬を赤らめ、さっと目を逸らした。
「あなたがこれをもってきてくれて助かりました。ずいぶんと空腹だったのはわかっていたのですが、あまり多くは口にできそうになかったので……しかし、あの少年は私が目を覚ましたあと、すぐに駆けつけてくれましたね。彼にもぜひ礼を――」
「アーナヴ」
青年はリュシアンの手から空の皿を奪い取り、愛想なく言った。
「私はアーナヴ。弟はイェマです」
それが彼らの名前なのだと気づいたとき、リュシアンはようやく物を口にできたとき以上の安堵を覚えた。暗い石室が、にわかに明るくなったような気さえする。
気丈に振る舞えていたつもりでも、実はずいぶんと弱気になっていたのだと思い知らされる。
目の前にいる人間が真実この世界に生きている人間なのだと、そう確信できただけで心強かった。
「アー……ナヴ」
やはり耳慣れない響きだ。きちんと発音できているかすら怪しい。
「よろしく、アーナヴ。私は」
「リュシアンさま。旦那さまから聞いてます」
「待って」
そう言ったきり部屋を出て行こうとする青年――アーナヴを、リュシアンは慌てて呼び止める。
「あなたが私を知っているのなら、なぜここに囚われているのかも知っているのではないですか。私は、一刻もはやく主人のもとへ帰りたいのです。なにか知っているのなら……なんでもいい。教えてくれませんか」
縋るような声に、アーナヴはゆっくりと振り向いた。
その顔には哀れむような、しかし、心の底からリュシアンを蔑むような、複雑で曖昧な表情が浮かんでいた。
「わたしは、あなたが嫌いです。あなたのような人が嫌いです。でも、わたしたちの旦那さまは、あなたを助けた。だから、あなたは旦那さまのものになります。わたしたちとおなじ。それが幸せです」
「それは……」
彼らと同じく、リュシアンにもあの男に仕えろというのか。
クレールには戻らず、ここで暮らせと。
「そんなことにはならない」
リュシアンの声は震えた。
「私はあなたの主人の物にはならない。私は」
テオドールの――。
「そうだよ。彼は人であって誰かの所有物じゃない。そしてそれはキミもだ、アーナヴ」
その声は柔らかな蝋燭の灯りに溶けるかのように、優しく響く。
はっとして振り返る少年とリュシアンを、扉の前に立つ長身の男は交互に眺めて微笑んだ。
リュシアンはシーツを掴み、身を固くした。喘ぐように肩で息をすると、リュシアンを“助けた”男からあの芳しい香りが香ってくるようで、強い吐き気に襲われる。
「旦那さま。おかえりなさいませ」
弾むようなアーナヴの声に、男は穏やかに「ただいま」と答える。
「留守のあいだ、よく彼の世話をしてくれたようだね」
「旦那さまのおっしゃるとおりに」
「ありがとう。もう下がっていい。私はあとで食事をするから、キミはイェマとさきに食べておいで」
「でも」
「私は大丈夫。ここに武器になるようなものはないからね」
どこか不安そうなアーナヴは、それでも主人に再度促されるまま部屋をあとにした。残されたリュシアンはその場から逃げるわけにもいかず、暗い部屋のなかには重々しい沈黙が残る。
しかし、気を張り詰めているのはリュシアンだけだ。
男は何事もなかったかのように冷たい石部屋を横切ると、隅に転がっていた花台を拾って、その細い脚をひとつひとつ検めた。
「よかった。壊れてはいないようだ。この花台は幼いころ私の部屋に置いていたものでね。少々思い入れがある」
男が花台を元の場所――寝台の傍らへ戻して手燭を置くと、部屋の明るさがにわかに増す。
「壊してしまえばよかった。粉々に」
見下ろすように、当然のごとく隣へ立つ男にむかって吐き捨てると、
「これは手厳しい」
男は軽く肩を竦めて笑った。
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