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Ⅷ-3
「そういえば、キミにはまだ名乗っていなかったね。私は……」
「いまさら名乗るもなにもないでしょう、ド・アルマン卿」
男――ジャン・グレゴワール・ド・アルマン公爵が、その薄灰色の目を瞠る。
定まらない光源のなかにいても、その堂々たる体躯と落ち着いた物腰が、彼が嘘偽りのない高位の身分にあるものであることを伝えてくる。
テオドールと並び立つ……いや、テオドールが野心と自信に輝く獅子ならば、彼は遠く空の高みから地上を見下ろすオオワシのような大らかさと、王者の風格を滲ませていた。
王の血を引く者。
リュシアンは国王をその目で見たことはない。だが、いまこの場で彼が当代の王であるといわれれば一も二もなく受け入れてしまいそうな――それほどの威圧感を感じていた。
――見事だ。
自分を追い詰めた、あの狡猾で掴みどころのない男の姿はどこに見当たらない。
だが、彼が“敵”であることに変わりはない。
リュシアン自身を害したからではない。
テオドールがこの男を〝敵〟と見なしたことが、リュシアンにとってはこの王の眷属に刃を向ける正当な理由となる。
「ここ数ヶ月、わたくしは閣下のことばかりを考えておりました。あなたがどういう方で――我々を、どうなさろうとしているのか。そして、その答えは出なかった」
「主は教えてくれなかったのかい? 私がやりたいことはキミの主にすべて包み隠さず話したつもりなんだけれど」
リュシアンは、ぐ、と息を飲む。
その顔を見、ド・アルマンは口の端を笑みに歪めた。
「ああ……その主が信用ならないから、いまキミはここにいるんだったか。バシュレの元教師殿に聞いたよ。普段、キミはよほどのことがない限り邸から一歩も出ないんだってね。出たとしても、主と同じように……いいや、それ以上の護衛を付けられているとか。そんなキミが先立つものももたずにああしてひとりでフラフラしていたんだから、単純に考えて――つまりは、ついに主に愛想を尽かしたということだろう?」
「閣下はそれを見越して、私が邸を出るのを手ぐすね引いて待っていたということですか」
「まあね」
リュシアンが邸を出る前からド・アルマンの手の者が周囲に張りついていたということだろう。
テオドールの警告は正しかったのだ。リュシアンは邸を――いや、あの部屋からすら出るべきではなかった。
だが己の迂闊さを呪うのはいつでもできる。
いまはただ、なぜ自分がこのような立場に追い込まれたのか、それだけを考えなくてはならなかった。
情報がいる。
この男について――そして、自分自身についても。
「ずいぶん効率の悪いことですね。あのまま私がひとりにならなければ、一体どうなさるおつもりだったのです」
邸を見張るのは悪手とはいえない。
クレールは私兵をもたないがゆえに警備が薄い。
テオドールが男を警戒してリュシアンを部屋へ閉じ込めたのも、おそらくそれより最良の手がなかったからだ。
しかしミドン、オルワースの件もある。
ミドン、オルワース両家はド・アルマンの私兵によって邸を襲われ、奴隷を奪われたとテオドールは言った。
クレールにいくら“呪い”の加護があるとしても、それは奴隷であるリュシアンにまで及んではいないはずだ。使用人ひとりの命など、いかようにも理由をつけて奪えるだろう。
「そもそも、あなたがわたくしを狙う理由は、わたくしの命を取るためではなかったのですか。ならばこんな回りくどいことなどせず、さっさと殺してしまえばいい」
「まあ、そう肩肘を張らないでくれ。身体もまだ本調子じゃないだろう。あまり急いで結論を出そうとすると、また熱を出して倒れてしまうよ」
「熱?」
リュシアンは生まれたままの姿の自分を見下ろした。
たしかに全身を包む気怠さはあるが、意識を失うほどの高熱を出したあととは思えない。
「あれはあなたが怪しげな薬を私に盛ったのでしょう」
「とんでもない。たしかにキミの逃げる脚を少し遅らせるために細工をさせてもらったが、“あれ”にそれほどの効果はないよ。キミも身をもって知っただろう。多少気が昂ぶって、まともな思考ができなくなるくらいだ」
多少、という言葉に引っ掛かるものは感じたものの、リュシアンに反論するほどの手札はない。
「よほど疲れていたんだろう。さあ、もう一度休むといい。あとで医師を寄越そう」
「あなたの袖に纏わりついていた香り……あれが“細工”の正体ですか」
「……へえ」
ド・アルマンは感心したように息を吐いた。
「あれに気づくのか」
す、と長身を屈め、リュシアンの耳元に囁く。
「単に男に抱かれることに慣れた身体だとは思っていたけれど……なるほど、けっこうな観察眼だ。これはますます――惜しい」
「っ、触るな!」
振り払った腕がなにかにぶつかり、鈍い音を立てる。
青ざめた顔で己の身体を抱くリュシアンを、男は切れた唇に笑みを浮かべながら見下ろしていた。
それはぞっとするほど美しく、慈愛に満ちた笑みだった。
「安心してくれ、香は使わない。あれはもともとフランソワの持ち物でね。もう私の手元には残っていないんだ」
「あなたの言うことなど、なにひとつ信用できない」
ド・アルマンは肩を竦めた。
「弱ったな。一体どこから話せばいい? さっきも言ったとおり、キミの体調は万全じゃないんだ。医師からもあまり心労をかけるなと言われているんだよ。まあ、自業自得といえばそうだけれど、いまはゆっくり休んでほしいんだ」
「私を主のもとへ帰してください。そうすれば、あなたの話を聞きましょう」
「却下だ。そもそも私は最初からそのつもりだった。それを、キミを私から隠すというかたちで妨害したのはあの男だ。すでに交渉の余地はない」
「あの方は私を守ろうとした! だから私に黙って――!」
「本当に?」
「……なに?」
リュシアンは目を瞠る。
伏せた男の目が先ほどと打って変わって、冷たくリュシアンを射貫く。
「本当にキミはそう言い切れるのか? あの男が“キミのために”、事の仔細一切を隠していたと?」
「……なにが言いたい」
「キミはあの男がなにを隠しているのか知らないだろう。あの傲慢で、強欲な一族がどれだけ“我々”を傷つけたか」
男の腕が伸び、リュシアンの肩を掴んだ。
痕がつくほど強く握りしめられ、痛みに顔を顰める。
「“我々”というなかにキミも含まれているんだよ、リュシアン・ヴァロー。キミはあの一族に人生を狂わされた。あの者達がいなければキミは男たちの慰みものになることもなかった。辛かったろう? 苦しかっただろう? ……アーナヴやイェマだってそうだ。あの男が……あの男の祖先のせいで彼らは……」
――祖先。
捕らえられる前。宿でみた夢を思い出す。
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