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Ⅸ-1

 枯れた枝が擦れるかさかさとした囁きが、やがて大きなざわめきとなって耳を打った。  森の甘い香りがする。その合間を縫って尖った水の匂いが届く。どこからともなく聞こえてくる和やかな談笑が一時の安らぎを運んでくる。   腰掛けた石のベンチの冷たさをズボンの膝裏に感じて、ぶるりとひとつ身震いしたあとで、リュシアンは立てた襟を掻き合わせた。  そろそろ冬が近い。  ド・アルマンの館に囚われ、目覚めてから、さらに3日。  怪しい香の効果が消え、身体に違和感を感じなくなった頃、リュシアンは外へ出された。  庭を歩き、新鮮な空気を吸えば気力も戻る。そのあいだに身の振り方を考えておいで――親切めいた言葉で、男は弱り切ったリュシアンの心と身体を縛る。  クレールから人が消えた。テオドールはリュシアンを残して姿を消した。  呆然とするリュシアンにド・アルマンは“気を落とすな”とでも言いたかったのだろうか、リュシアンはすぐに、あの暗い石牢から窓のある日当たりの良い部屋へと移された。  湯を浴び、今度こそまともな食べ物を口にした。磨き上げられた銀のナイフも、フォークも用意された。  もう抵抗する気などないだろう、と無言の圧力を感じた。  意識を失っていたあいだリュシアンの世話を任されていたアーナヴ、イェマの兄弟も、引き続きリュシアンの目付役として部屋に寄越され、表面上は穏やかで、平凡な日々が営まれる。  アーナヴのリュシアンに対する態度は若干の変化を見せていた。  主人にこちらの現状を聞いたのだろう。相変わらず言葉は少なく、必要なときにしか姿を現さないが、出会った当初に向けられたあからさまな敵意が、ふ、と薄れることがある。  今日もそうだ。  外へ出たいと伝えると、はじめは紅茶色の瞳を渋い色に変え難色を示したアーナヴは、すぐ何かに思い当たったようにはっとして、外套と靴を差し出したのだ。おそらくそれは、彼自身が主人に抱く想いを鑑みた結果生まれた、一種の同情のようなものなのだろうとリュシアンは思う。  だが、いまこの館にいる者すべての予想に反して、リュシアン自身は現在の状況に一片の不安も絶望も抱いていないのだ。  それは、ある確信が舞い降りたからである。 “それ”は、目覚めてはじめて館の外へ出たとき訪れた。  ――テオドールが来る。  そう天啓のようにふと思い至ったのは、絶望のあまり愛しい男の幻影を見たからでも、気が触れた結果、リュシアンが迷夢の淵に迷い込んだからでもない。  はじめて庭の散策を許され、まだ強張る身体をアーナヴに支えられたまま見た、ド・アルマン邸の巨大な玄関……その扉の先。  リュシアンの眼前に広がった光景にリュシアンは声を失った。  広い前庭を囲むようにして大きく左右に広がった翼廊。そのむこう、真鍮の柵に隔てられた館を覆い隠すように広がっているのは鬱蒼と茂った暗い森。 『ここは……』  ――ここはクレールの北の森だ。  生い茂る木々の佇まいが。鼻先を掠める風の匂いが。  いま自分がいる場所はテオドールと思い出を共にした場所と続いているのだと告げている。  ――まさか……バシュレの邸、なのか?  夏のころ、沢に落ちたルネが運ばれた場所。リュシアンがド・アルマンるきっかけとなった事件が起こった館。ここが、そうだというのか。  庭に出、聳え立つ石造りの館を見上げる。  正面から相対すると、その大きさがよくわかる。  クレールの木組みの館からわかるように、北の森は奥深く、建材を運びこむことはたいそうな困難である。  それをバシュレ邸は総石造り、しかも10を超す部屋を設けている。もはや一貴族の夏の保養地としては豪奢に過ぎる造りだ。  この造りは館を築いたバシュレ公爵家の家風に由来する。  それというのも、以前この館の持ち主であったバシュレ侯爵家というのが、もとはたいそうな資産家の一族であったのだ。  さらには、爵位を授かる以前は王宮のお抱え絵師、その他彫刻家を輩出した家系でもあった。  自然と芸術を愛した歴代の当主たちの手によって館は少しずつ、そして大きく、まさにオオワシのようにその翼を森の中へ広げていったのである。  リュシアンはバシュレが館の主であったときにこの場所を直接目にしたことはなかったが、以上のようなことをバシュレに仕えていたユーグの口から聞いていた。  まさかこのように巨大で、一種異様な様相の館がクレールと境界を挟んですぐむこうにあろうとは思ってもみなかったが、クレールの徹底した“リュシアン隠し”によって自らの世事に疎いことは知っていたので、その当時はさほど驚きはしなかったのだ。  だが――。  実際に目にする館は、まさに“立派”の一言だった。リュシアンは感嘆の息を呑む。  前庭には湧き水を利用した小川が造られ、淑やかなふたりの女性を象った彫刻が流れに戯れている。  玄関の右隣には礼拝堂を兼ねる、レンガ造りのガゼボ。館のすべての窓は薔薇の蔦を模した格子に覆われ、細部まで人の手による美に埋め尽くされていた。  しかし館の外観とは対照的に、それを取り囲む森にはいっさい手をつけていない。  館へと続く道はおそらく馬車一頭がやっと通れるほどの幅であるし、もし誤ってこの場所へ足を踏み入れる者があるならば、深い森の奥に突如として現れた館を見て、はたしてここが天国か、それとも森に迷い込んだ者を惑わす魔女の館かと顔色をなくすに違いない。

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