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Ⅸ-2

 選ばれし者の奢侈な庭は、しかし、新しい主を得てなお、もっとも美しいころの姿を取り戻しているとはいえない。  積まれたレンガの間隙に、醜く湿った黒い苔。  灌木の隙間にのぞくのは、そこだけ夏の名残を孕んだままの徒長枝だ。  ただでさえ繊細で大がかりな手入れを必要とする庭は、美に鋭敏な主を失い、そして腕の良い庭師をも失って、いまやすっかり最盛のころの面影はない。  繊細であるがゆえに、少しの綻びが景観を著しく損なっている。  その様はみすぼらしさ通り越し、もはや禍々しくさえある。  美しくも枯れた庭に、幸福のうちにあった一族の崩壊を感じ、そこにけっして他人事とは思えない虚しさを感じて俯くと。 「リュシアンさま」  ふいに声をかけられ、リュシアンはゆっくりと振り返った。  青年がひとり、リュシアンを見下ろすように立っている。  アーナヴ。  もとは奴隷の身でありながら、いまはこの館の一切を取り仕切る、異国の青年。  浅黒く若々しい肌の青年と、斬新ではあるものの細部まで自国の伝統に則られ建てられた古い建造物との対比が、この国の価値観に染まりきったリュシアンの胸を強い違和感でもってざわつかせた。 「もう部屋へ戻る時間ですか」 “客人”から、“囚われ人へ”。  日に一度許された休息は終わりかと、リュシアンはさして抵抗するわけでもなく立ち上がる。  しかし、青年は。 「旦那さまがお戻りです。一緒にきてください」  そう言い残して、くるりと踵を返した。  向かう方向は正門である。 「あ……ちょっと」  呼び掛けるも答えはない。  大人に差しかかったばかりの、長いばかりでひょろひょろと細い両脚が、ふたりの距離を容赦なく広げていく。  ――私も、すでにこの家の使用人だとでも言いたいのか?  釈然としないものを感じながらも、リュシアンはその小走りの背中を追った。  従者にとって、主人の世話というものは何においても優先である。  とくに、ド・アルマンへ絶対の忠誠を誓っているアーナヴが、主の帰館を待ちわびているのはリュシアンも強く感じていた。  なにしろ、館の主は久方ぶりに戻ってくるのだ。  クレールにいたころ、リュシアンもいまの彼と同じように、テオドールのやってくるのを待っていた。  アーナヴの主に対するそれは、リュシアンがテオドールに抱いている想いとは異なるものではあろうが、従者としての本質は同じものなのだろう。  そのテオドールはいま、どこかへ行方をくらませたまま、ド・アルマンの手によって捜索が続けられている。  リュシアンを見張る衛士は、時折顔ぶれが変わるところをみると、数日おきに入れ替えられているようである。  おそらく、四方手を尽くして捜索に当たっているに違いない。  そのド・アルマンが、ついに今日、戻ってきた。  もし男の持ち帰った一報が、テオドールの発見についてであったとしたら。 『見つかった』。 『捕らえた』。  ――あるいは、すでに爵位を取り上げられていたら?  ミドンとオルワースの例がある。  捕らえたテオドールにあらぬ疑いをかけ、王を唆したうえで、なんらかの罰を与えた可能性は大いにあり得る。  歴史ある一族だ。まさか命を奪われるような罰を受けはしないだろうが、ド・アルマンに全幅の信頼を置いている王が、クレールの奪爵を考えないという保証はない。  ――もしそうなれば、私はずっとこのままか。  いくらテオドールといえども、何の手立てもなくリュシアンを救い出せるはずはあるまい。  単騎乗り込んだところで、衛士を含め数十の男たちに敵うはずもない。  だが。  ――やはり、予感がする。  気配、と言ってもいい。  懐かしいこの空気のどこかに。  あるいは、近くや遠く、そういったものを超えたこの波乱の裏側に、いまやテオドールの大きな気配が迫っているのをリュシアンは感じている。  おそらく、それは自信。  あの男がこんなにもあっさりと自分を諦めるわけがないという、リュシアンの自負。  リュシアンを救う手立てがすべて失われたとき、テオドールは間違いなく、ひとりでここへ乗り込んでくる。  死を怖れず、この地でリュシアンとふたり、果てるためにやってくる。  だがそれは、あくまで最後の手段だ。  そしてすでに万策は尽きている。  ――ように見える。  最後の手段。テオドールは間違いなく実行するだろう。  奪われるくらいなら、自らの手で奪う。そういう男だ。  その男が、この期に及んでリュシアンの前に姿を現さない理由。  それこそが、テオドールがこの状況においてなんらかの勝機を見出している証なのだ。  ド・アルマンも、どこかでそれに気づいている。

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