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Ⅸ-3

 多少強引と思われる手立ても、そのせいだろう。  結局、リュシアンを利用してド・アルマンがなにをしようとしているのかは、まだ明かされてはいない。  むしろ、その機会がない。  リュシアンが目覚めてからというもの、ド・アルマンの姿を館のなかで見ることはほとんどなかった。彼は数日おきに館へ戻っては少し眠り、またすぐに衛士を引き連れテオドールの捜索へ向かうということを繰り返している。  おかげで、リュシアンの話し相手はもっぱらイェマとアーナヴの兄弟だけだ。ほかの使用人たちは、できるだけこちらと関わり合いをもたないようにしているようである。  不躾に投げかけられる侮蔑の視線を――それは、アーナヴにはじめて会ったとき向けられたものと同じ類いのものであるが――受けながら、リュシアンは日々を過ごしている。  居心地が悪いとは思わない。  クレールの邸にいる時分から、己の存在が異質であることはわかっていたし、むしろテオドールを当主と仰ぐようになってから、すっかり忘れたように錯覚していた“腫れ物”としての感覚を、どこか懐かしくも感じていた。  身が引き締まる思い、とでも言おうか。  尊敬も、敬遠も。  むしろリュシアンの存在理由を明確に浮かび上がらせてくれる。背筋を正してくれる。  テオドールの気配を感じてからは、なおのこと“己”をはっきりと自覚するようになった。  ふたたびまみえたとき、あの方に恥じない自分でいたい。  リュシアンの覚悟を感じとってか、このところ目に見えて接し方の変わってきたアーナヴが、ちらりとときおり振り返りながら、前を行く。  やがて辿り着いた門前には、黒い人だかりができていた。  白馬に跨がるド・アルマンを取り囲む、十数の使用人。  女も、男も、老人も。すべてイェマとアーナヴと故郷を同じくする、もと奴隷達である。  彼らは一様になにかを喚き、馬上の主へいまにも掴みかからんばかりに詰め寄っている。  アーナヴの背に緊張が走った。 『なんだ、あれは――』 『兄さんっ』  そのとき、人だかりのむこうから少年が駆け寄ってくる。  イェマである。 『あれはなんだ。みんな旦那様になにを――』 『みんな怒ってる。旦那様が、リュシアン様を連れてここを出て行くっておっしゃったから』  なんだって?  きっ、と振り向いた視線が、言外に語った。だがリュシアンに、会話の中身がわかるはずもない。  アーナヴは小さく舌打ちをすると、戸惑う弟へ向き直った。 『わかった。俺がみんなのところへ行くから、お前はここでコイツを見張ってろ』  兄が“コイツ”と指差すリュシアンを、イェマは不安そうな顔で見つめる。 『兄さん。僕たちどうなっちゃうの?』 『……大丈夫だ。ここにいろ』  そう言うとアーナヴはくしゃりと弟の髪を撫で、主のもとへと走っていった。  残されたイェマは不安そうに、視線をリュシアンと地面とに彷徨わせる。 「一体なにが起きたのですか」  訊ねても、少年は眉を顰めて立ち尽くすだけだ。話したくないというよりも、どのように説明していいものかわからないといったふうである。  しかたなく、リュシアンも駆けていくアーナヴの背を目で追う。  馬上のド・アルマンは激昂した使用人たちを窘めるでもなく、ひとりひとりと言葉を交わしている。  どうやら異国の暴動を扇動しているのはアーナヴと同じ年頃の青年らしく、リュシアンも一度か二度目にしたことのある男だった。  青年はアーナヴの姿を認めると、主に詰め寄るのを止めて向き直る。  どのような言葉を交わしているのかリュシアンには理解できないが、ふいにはじまった口論は、見る間に烈しさを増していった。  男の浅黒い肌には汗と血管が浮かび、遠くから見てもわかる血走った両の目は異様な迫力を帯びている。 『どういうことなんだ、アーナヴ! お前も知っていたのか?』  対するアーナヴのほうは、怒りに声は大きくなるものの、かろうじてまだ理性を保っているように見える。  いや、主の手前、努めて冷静であろうとする様子だ。  頬にかかった男の唾を袖口で拭いながら、 『まずは旦那様に話を聞く』  肩を押し退け、進もうとするのを、男の腕が阻む。 『話なら、いま俺たちが聞いた。旦那様はあそこに突っ立ってる性奴隷を連れてここを出て行くんだとよ。俺たちを置いて、だ。俺たちは騙されたんだ』 『……なにかの間違いだろ。いいから、どけ』 『俺の話を信じないってのか?』 『そうじゃない。まずは旦那様と話を……』 『黙れ!』  強く肩を押され、アーナヴが蹌踉めく。  リュシアンの隣に立つイェマが、ああ、と悲痛な息を吐いた。  兄が心配なのだろう。無意識にか、小さな手はリュシアンの袖をしっかりと握りしめている。 『おい、なに……!』 『そうか。わかったぞ』  男が頬を引き攣らせ、乾いた笑い声を上げた。  『どうりで落ち着いてやがるはずだ。お前ら兄弟は、旦那様のお気に入りだからな。このまま俺たちの前から姿を消して、お前らも一緒に行くつもりなんだ。え? そうなんだろっ』 『やめろっ。お前こそ落ち着けよっ』  掴みかかろうとする手をかろうじて避けながら、アーナヴの視線は主を探していた。  つられて、リュシアンも馬上の男に目を遣る。  騒動を見守る男の背は、わずかな歪みもなくまっすぐと伸びていた。  事の中心、むしろその発端であるにもかかわらず、尖った横顔には微塵の焦りも感じられない。  口元には笑みすら浮かべ、縋るように自分を見上げるアーナヴを、まるで試してでもいるかのように見える。  考えろ。  己の力でこの場をおさめてみせよ。  そう語るような目に、リュシアンはぞっと背筋を震わせる。  当のアーナヴは。  熱に浮かされたように、ぼう、と主を見上げていた。  そして、緩んだ口元がなにかを呟き、窪んだ眼窩の奥で瞳が激しく揺れると。 『お、おい……』  諍いなどはじめからなかったかのように、アーナヴは目の前の仲間を優しく抱きしめた。

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