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Ⅸ-4

『俺の話をきいてくれ。頼む』 『アーナヴ……』 『思い出してくれ。オルワースで俺達が受けた痛みを――屈辱を』  人々の、血走った両目に光りが戻る。 『クソみたいな飯を食わされた。全員が倒れるまで働かされた。痩せ細って、藁の上で死んじまった仲間の姿を忘れたわけじゃないだろう』  アーナヴの腕のなかで、男が力なく俯く。 『ルドラ。お前の妹をあんな姿にしたのは誰だ? そして、それを助けてくれたのは誰だ』  男は力なく首を振った。 『お願いだ、アーナヴ。ミトの話は――』 『目を逸らすな!』  力強い声が前庭に響く。  いや――これは力をもった声だ。  アーナヴの呼び掛けにひとり、またひとりと顔を上げる。 『怒りを忘れるな! 与えられた痛みを思い出すんだ!』  声は波紋のように広がり、人々の魂を揺さぶる。  男たちは振り上げた拳を下ろし、力が抜けたように年若いリーダーを見つめた。 『俺達はこんなところで争ってる場合じゃない。家族に売られ、国に見捨てられた俺達は、もうここでしか生きていくことはできない。ここで、この国で俺達の居場所をつくらなきゃいけないんだ! そのためには、ほかでもない、旦那様の助けが必要なんだ!』  言葉のわからないリュシアンでさえ、その気迫に押し流されそうになる。  ふいに強く腕を引かれる感触がして、足元を見るとイェマがその場に小さく踞っている。  ――泣いているのか。  感極まっているようには見えない。  イェマの背は震え、握りしめた拳は色を失っている。  彼はなにかに怯えているのだ。おそらくは、仲間たちと同じくアーナヴの言葉に。 「イェマ」  小さく名を呼んでやると、少年は勢いよくリュシアンの胸に飛び込んできた。  繰り返しなにか呟いている。  それは日頃、彼が兄に叱られたときよく口にする言葉だ。  ――ごめんなさい、か?  アーナヴはよく弟を叱った。それが弟に対する、兄なりの愛情表現だったのだろう。  過酷な運命に屈することなく強く生き抜いてほしいと願う心がその態度から伝わってくるからこそ、リュシアンもこれまでは目を瞑っていたのだが。 「大丈夫ですか?」  イェマは答えない。  リュシアンは苛立ちを覚えた。  たったひとりの肉親だろう。なにをしている!  唯一、弟の心の傷を癒やすことができるであろうアーナヴは、こちらのことなど見向きもしない。  いま、彼の心は主のことでいっぱいなのだ。  普段の聡明さは消え失せ、感情のままに仲間へと詰め寄る。 『お前たちはなにが不満なんだ! こんな人気のない森に閉じ込められて、ちまちま畑を耕してることか? 毎日毎日、いつまでたっても終わらない館の修繕に時間を費やしていることか?』  迫られる青年はイェマ同様、顔色を失っている。  腕を突っぱねると、蹌踉めくようにアーナヴから離れた。 『別に、不満なんて』 『それなら黙って旦那様を信じろ! 旦那様は俺達がこの国で何不自由なく暮らしていけるよう、命をかけて戦ってくださってるんだ! それが不満なら出て行け! 奴隷にでも物乞いにでもなって、どこへなりとも行っちまえ!』  わっ、とイェマが声を上げて泣き始めた。  リュシアンはたまらず口を挟んだ。  この痛ましい事態を止められるのは、もうアーナヴしかいない。 「イェマが怖がっています! もうやめなさい、アーナヴ!」 「うるさいっ!」  罵声が飛ぶ。  アーナヴの血走った両目がリュシアンを睨みつける。  狂ったように頭を振り、喉も裂けよとばかりに激しく、たどたどしい言葉を投げてくる。 「お前になにがわかる! 奴隷! 俺達とおなじ、おなじ奴隷の……お前、旦那さまの……『ああっ!』……お前も、おまえも旦那さまの……!」 『兄さんっ』  するりと腕のなかから小さな塊が飛び出した。 「いけない」  兄のもとへ駆け寄ろうとする弟をリュシアンは止めようとした。  だが、間に合わない。  指先をするりと躱した袖が、目の前で健気に揺れる。 「イェマ!」  瞬間、リュシアンは、たったひとりの肉親に頬を打ち据えられる少年の姿を見た気がした。  だが。 「やめるんだ」  ふわり、と翻るマントが猛り狂うアーナヴを包み込んだ。 「あ……」  いつの間にやってきたのか。  気づけば、馬を下りたド・アルマンがアーナヴをその腕に抱いている。 「落ち着いて。深く息を吸いなさい」  男の腕のなかで、アーナヴの薄い胸が大きく上下した。  強張っていた身体から力が抜け、ずるりと地面に倒れ込む。 『兄さん……』  心配そうに覗き込むイェマへその身体を渡し、ド・アルマンはゆっくりと周囲を見廻した。

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