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Ⅹ-1
Ⅹ
〝明朝発つ〟という言葉どおり、リュシアンはひとまず部屋へ戻された。
わずかな使用人たちがことごとく出払い、館のなかは閑散としている。
「のちほど旦那様がまいります。これから先は長旅になりますので、いまのうちにお休みいただくのがよろしいかと」
付き添い――見張りの衛士は口早に言うと、リュシアンひとりを残して去っていった。
休めといわれたところで到底横になる気にもなれず、とりあえず長椅子へ腰掛ける。
ちょうど清掃の途中であったのか、開け放たれたままの窓から木枯らしが舞い込んだ。閉めるのも億劫で、リュシアンはそのまま目を閉じた。
しばらくして衛士が扉を叩き、くつろいだ格好のド・アルマンを部屋へ通した。もはや入室の可否を問われることもない。
端からこの館にリュシアンの安息の地はない。
「休まなくていいのかい?」
手早く汗でも流してきたのか、男の長い髪は濡れていた。
濡れ髪の男を部屋へ招き入れる――穏やかならぬ心を、さらに罪悪感が襲う。
「こうして部屋へいらっしゃったということは、私を休ませる気などないのでしょう?」
「そんなことはない。キミのような強かな人は、いつどのような状況でも必要に応じて休息をとることができるのだろうと思っていた」
「それは買いかぶりというものですよ。私は貴方ほど〝ここ〟が強くできてはいない」
リュシアンが己の薄い胸を指しながら言うと、ド・アルマンは、それは褒め言葉かな、と肩を竦めながら対面へ腰掛ける。
「アーナヴは」
「エドがついている。よく眠っているよ」
アルマン公爵家の侍医で、そしてリュシアンの身体の管理を任されるエドゥアール・ブレトン医師は、ド・アルマンが不在のあいだも常に館に詰めている。
まだ青年といった風体の一見頼りなさそうな男だが、夏頃、沢に滑落したルネを救ってくれた恩もあって、リュシアンも彼の医者としての腕は信用していた。
イェマも、信頼しているブレトン医師に兄を診てもらえれば多少は安心するに違いないと、ほっと胸を撫で下ろす。
「リュシアン殿とふたりにしてくれ」
ド・アルマンが呼び掛けると、扉の前に直立していた衛士がこちらを向いた。
「は」
「それと、〝例のもの〟が届いたら知らせなさい。出立をはやめる。あれが届きしだい、ここを出る」
「かしこまりました」
衛士の姿が扉の向こうに消えたのを待って、ド・アルマンはリュシアンを振り返る。
「なにか言いたそうな顔だね」
「ええ。もちろん」
言いたいこと、訊ねたいことを挙げればきりがない。
この場で男から引き出せる情報はなにか。混乱し、靄がかかったような頭で考えた。
なにしろ時間がない。
ド・アルマンにも、おそらくリュシアンにも。
ここで数刻時間を稼いだところで、助けが来るとも思えない。
それならば、少しでも事を有利に進める材料がほしい。
「アーナヴは、なぜあれほど取り乱したのです。そして貴方が近づいた途端意識を失った。彼になにかしたのですか」
「なにも。彼の頭の切れるのは、その繊細さゆえだ。周囲の状況をよく理解する反面、人一倍その影響を受けやすい。私が困っているのをみて、場を収めようと多少無理をしてしまったんだろう。よくあることだよ」
「それだけですか? 私にしたように、あの怪しげな香をつかったのでは?」
「あれはもう手元にないと言っただろう? それほど私は信用できないかな」
「なにか信用に値することをなさった覚えが?」
「ない。しかし、今後は包み隠さず真実を話すと誓うよ……本当だ」
笑みに歪む口元に多少の疲れがみえる。男に、いまさら嘘をつく余裕があるようにはみえない。
リュシアンの自由を奪った薬がつかわれることは二度とない。
それだけでも脱出の機会が皆無ではないことがわかって、気が楽になった。
「お疲れのようですが、閣下こそ私になにか用があっていらっしゃったのではないのですか」
「……用、か」
そうだな、と男は目を閉じて天井を仰ぐ。
「キミの顔が見たくなったと言ったら、おかしいかな」
――なにを言っている、この男。
薄気味悪く思う気持ちが表情に表れていたのだろう、薄目でこちらを窺う顔に苦笑が浮かぶ。
「いや、すまない。キミをどうこうしたいとか、そういうことではないから安心してくれ。ただ少しだけ…………本当にキミの顔が見たくなったんだ」
だめかな、と窺うような視線を向けられれば、おいそれとは拒絶できない。
「……それほど滑稽ですか、私の顔は」
「まさか。美しいよ。とてもね」
ゆるりとした濃密な時間が流れる。
捕らえた者と、捕らわれた者。
両者のあいだにけっして存在しないはずの、互いを思い遣るような空気のやり取りがあった。
なぜかリュシアンは、いまだけ男を責めることを忘れた。
容姿を褒められたからではない。うわべだけの讃辞を向けられることには慣れている。
だが、きっと男の言葉が――これまで接したなかで、おそらく唯一――紛れもなく本心から発せられたものであることを、胸の深いところで感じたからだろう。
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