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Ⅹ-2

 男の口から語られる言葉が、少なくとも嘘偽りのないものであるに違いないと、素直にそう思えた。 「キミとこうして語り合うのは、これが最後だろう」  唐突に男は言った。 「それは、私を解放してくださるということですか」 「それを訊ねることに意味があるかい? キミの心のなかでは、すでにその可能性が否定されているというのに」  ――やはり、か。  リュシアンは命を落とすのだろう。  この男の〝計画〟のなかでは。 「私が助かる道はないのでしょうか」 「ないこともない。ただ、可能性は皆無に近いだろうね」 「なぜ」 「これからキミは死地へ赴くからだ」  死地。  戦でもはじめるつもりか。 「キミには、ある方の身代わりとなってもらう。場所はヴィルマーユ」 「ヴィルマーユ……」  平静を装ったものの、恐怖の色は隠しようもない。リュシアンは冷たくなった指先を膝の上で握った。  ヴィルマーユ公国。  その名は、まさに〝死地〟と呼ぶににふさわしい。  リュシアンの白い喉が、ぐ、と鳴ったのを、男は見逃さなかった。  黄昏の差し込む部屋で、一際くもった灰色の瞳が粘ついた視線を寄越してくる。 「なにもキミの身が危険に晒されると決まったわけじゃない。私の言うとおり、そして『あの男』からの邪魔が入らなければ、そうだな、運が良ければ10年ほどで戻ってこられるだろう」 「待ってください。いま、『ある方』とおっしゃいましたか? 公爵家であるド・アルマンが、150年ものあいだ国交が断たれている国から救いだしたい人物……それも、それほどの敬意を払うべき相手となれば、王族くらいしか思い当たりません」 「そうだ。間違いない」  リュシアンは己の耳を疑った。 「……私に王族の身代わりになれと? 私にそれほどの価値があると、本当に思っているのですか?」  もし真に男がそう思っているのなら、これほど愚かなことはない。  そのような条件、到底成立するはずがないのだ。  ヴィルマーユ公国とリュシアンの生国――キルレリアは、もとはひとつの大国である。  ヴィルマーユ地方に発生したことからヴィルマーユ王国と名付けられた国は、13代エウトル2世の時代に一度崩壊を迎えた。  グリアモン・トマス・キルレリアことエウトル2世は、よく戦を好み、それ以上に金と色とを好んだ。  血の結びつきが近しい者を多く側近として寵遇し、民には圧政を敷いて富と権力を王族に集中させ、いつしかエウトル2世は『腐敗王』という二つ名を得る。  しかし、エウトル2世の治世は長くは続かない。  即位から13年。  王太子でありエウトル2世の長子、アーキア・フロリアン・キルレリアが、多くの臣下と怒れる民衆を率いて、蜂起。  度重なる戦で疲弊しきっていた王国軍は、騎士のほとんどが地方からの寄せ集めであったため充分な人員も得られないまま、あえなく敗北した。  その後、どれだけ民に求められようと、王太子アーキアは父王の処遇について終ぞ語ることこそなかった。が、公式にはエウトル2世は、長い幽閉生活のすえ病に死したとされている。  ヴィルマーユ王国は『キルレリア王国』と名を変え、アーキアを建国の王に据えて生まれ変わった。  その際、エウトル2世の『他に類を見ない強国を作る』という意志を継ぐ者たちが――しかし、それは表向きの理由であって、実際はエウトル2世時代に一族が蓄えた莫大な資金を管理していた、王族の出である3つの公爵家が――キルレリアからの独立を宣言。  戦も辞さない態度である3公爵家に対し、これ以上国民の負担を増やしたくないとアーキアは、キルレリアへの移住を希望する民を無条件で排出すべしとの条件を課し、独立の要求を呑んだ。 「それから、ヴィルマーユとはコヴェナの大戦を経て不可侵条約が結ばれているはずです。そしてその後、国交の断絶があった。そんな場所に、なぜ我が国から人質が?」 「人質の交換はおこなわれていたんだよ。200年のあいだ、ずっとね。それが公にはされていないだけだ」  我々は過去の因縁から目を背けてきたんだ、とド・アルマンは言う。 「ヴィルマーユには金があった。しかし、平たく言えば人望がない。彼らはあの悪名高い『腐敗王』の意志を継ぐ者達だからね。コヴェナの戦いでは各国がヴィルマーユに手を貸すことを拒否した。敗戦を機に彼らは学んだ。アーキア王がふたたび、彼らの言うところの〝くだらない正義感〟を振り回せば、せっかく確立した絶対的地位を瞬く間に失うことになるだろうと。そして、アーキア王もまた、コヴェナの戦いから学んだ。ヴィルマーユの資金力にいつか与する大国が表れれば、真の平和と平等を掲げるキルレリアは再び腐敗の温床となり果てるだろうと」  それだけは避けたかった――ド・アルマンは、まるで自身がアーキア王の悲願の代弁者であるかのように、深い溜め息とともに語った。 「アーキア王は最初の人質として実の弟をヴィルマーユに捧げた。ヴィルマーユからは、3つの公爵家のうちもっとも発言力のあったオッフェン公の末娘を。これで最初の人質交換が成立した。我々も、もとは同じ民族だ。王侯貴族にいつの間にかひとり見慣れない顔が増えたところで、誰も疑問に思いはしない。妾か、愛人が産んだ子どもを引き取ったのだといえば、それで話は済むんだよ」 「だからといって、私などがその身代わりにならないことは明白でしょう! 私のこの姿が見えないのですか? どこをどう見ても、純血の王族の一員にふさわしくない」  混血の、どこの馬の骨とも知れない人間に、国と国の微妙な均衡を保つ役割を果たせるはずがない。 「本来ならね。だが、今回ばかりはキミでないといけないんだ。むしろ、キミにしかできない。キミはたんなる代わりの人質じゃない。キミと、ヴィルマーユに捕らわれている御方とを秘密裏に入れ替える。これは、そのための〝計画〟なんだよ」  ――入れ替える。  ヴィルマーユ側に黙って人質をすげ替えようというのか。 「だから我々はヴィルマーユへ向かう。あちらに囚われている末の王子と、キミとを交換するために」 「王子ですって?」  ならば、いま現在の人質は王の子だとでもいうのか。 「そう。当代の人質は陛下の御子、第4王子フロリアン殿下だ」 「フロリアンという名の殿下が陛下の御子にいるなどという話、聞いたことがありません」 「誰を人質とするかは王の一存で決まる。とある事情からその出生の事実を秘された彼の殿下は、まさにうってつけだった。殿下は10歳までを王宮で隠されるようにして育ち、そして先の人質の死の知らせを受けて、予定どおり翌月、先の方の亡骸と引き換えにヴィルマーユへ送られた」 「そんな……」  その王子の代わりに、自分を?  ――そんなこと。 「…………できない。できるはずがない」  馬鹿げている。  入れ替えてどうする。顔貌の違う人間を、つい先ほどまでそこにいた者と入れ替えて、それが露見しないほどヴィルマーユの者達が愚かであるはずがない。 「そんな、馬鹿なこと」  リュシアンは混血で、母はとある貴族に辱められてリュシアンを産んだ。  母は〝その人〟の名を頑なに口にしなかった。  生まれたばかりのリュシアンを連れ、母は命からがら逃げ出した。  その息子は。  ――――ひとりだと、言ったか? 「嘘だ」  ふ、と男が双眸を細める。  愛おしい者を見るように。  青ざめるリュシアンの顔の向こうに、『大切な殿下』を見るように。 「はじめて会ったとき、キミは蜜色の髪のかつらをしていたね。とても驚いたよ――そして、私はあのとき確信したんだ。この〝計画〟の成功を。我々の勝利を」 「……違う。ちがいます。そんなの、なにかの間違いで」 『いい? ――――。』    これは母の声だ。まだリュシアンがリュシアンと名をつけられる以前の、母の国の名で呼ばれていたころの。  遠い夢の、淡い記憶のなかで母が笑う。  働き過ぎの、肉刺だらけの手でリュシアンの手を握って。  ささくれた爪先で、母とは似ていない形の耳に触れて。 『いい? ――――。持つ者は、持たざる者に与えなくてはならないの。いつだって慈悲の心を忘れちゃだめ。自分が一番不幸だなんて、そんな考えは捨てるの。きっといつか、あなたはその力をつかうときがくる。あなたに助けを求める人のために』 「わ、私は」  私は。  私は、誰の。 「あ……」 「もう気づいただろう? あの男が隠したがっていた、キミの〝真実〟に」  長身がゆっくりとした動作で立ち上がった。  長い腕を伸ばし、震えるリュシアンの頬を撫でる。 「我々はキミを眷属として迎えたいんだよ、リュシアン。そして、ヴィルマーユに囚われているキミの双子の弟――――フランソワ・フロリアン・キルレリアを救ってほしい。我々の悲願。真の平和をこの国へもたらすために」

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