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Ⅺ-1

ⅩⅠ  手のひらに触れる革の感触がじっとりと湿っている。  綴られた流麗な文字が時折激しく揺れるのは、車輪が粗雑に舗装された石畳の上を逝くからだろうか。  馬車は森を抜け、いくつかの小さな集落を過ぎた。  途中の道に人家の灯りはない。御者台座る従僕のもつ松明以外に光源もなく、小さな車内は煌々と照る冬の月明かりが照らしている。  御者がひとり。同じく御者台に、松明をもつ従僕がひとり。  車内に影はふたつ。リュシアンとド・アルマンである。  数刻前、〝計画〟の全貌が明かされ、リュシアンは己の出自を知った。  母が死を目前にしてなお語りたがらなかった、リュシアンの父親。それはどこぞの名もない貴族であるどころか、この国の王――そしてあろうことか、血を分けた兄弟まで存在した。  そこまではよかった。いまさら父が誰であろうと、リュシアンには関係ない。  しかし、事はそれだけにおさまらない。  リュシアンが拐かされた理由が敵対する隣国に囚われた弟にあって、今度は自分が弟の代わりに敵国へ送られるという。  神をも怖れぬテオドール・ド・クレールが、どうりで二の足を踏むわけだ――恐るべきは〝呪い〟などではなかったのだとリュシアンは悟った。  これは現実に起こりうる危機。打つ手を誤れば、リュシアンの命どころか、文字通り王の首すらかかっているというわけである。  テオドールがリュシアンの救出を諦めたとは思えないが、はたしてそれがいつになるのか。こればかりは運を待つしかない。  ――待つしかないのか。  きっとどこかで自分と同じく焦れた心を持て余しているであろう男を想い、リュシアンは人知れず歯噛みした。  使いに出されていた私兵が戻ってきたのは、そのときだ。  例のものが届きました――――差し出された赤い小さな包みを受け取ると、ド・アルマンは力の抜けたリュシアンの腕を掴み、 「さあ、いこうか」  予定どおり、一行はすぐさま館を発ったのだ。 「それは、だれに手向ける涙かな」  ふいに斜向かいから声を掛けられ、リュシアンははじめて己の頬が濡れていることに気づく。  顔を上げれば、月明かりに光る薄い色の瞳と視線がかち合った。  絶望の夜を明かす暇潰しくらいにはなるだろう、と手渡された先代ダルマン公の手記に〝我が子〟として描かれていた少年は、いまやひとりの逞しい青年へと成長し、狭い車内で長い手足を持て余し気味に腰掛けている。 「この涙は」  リュシアンは頬に一筋走った冷たい雫の痕を指先で拭う。  長く続く不自由な暮らしに倦み疲れた顔は、また新しく零れた雫も一瞬で吸いとった。あとに残るのは、かさかさとした不快な引き攣れだけである。 「あなたのためですよ――ジャン・グレゴワール」  ふと、なぜか無性にそうしたくなったリュシアンは、目の前の憎い男を親しい名でそう呼んだ。  男は灰色の眉を気怠げに顰め、うっすらと微笑みを浮かべた唇から、細く長い息を吐く。その様子は呆れているようにも、感心しているようにもみえる。 「私に同情でもしているつもりかい?」 「……そうですね」  ――そうかもしれない。  たしかに、いまも底知れない絶望感はあった。  手記を見る限り、キルレリアとヴィルマーユの関係はすでに修復しようのないほど悪化しているようであるし、そこに和解の余地も、長く続いた一見意味のない悪習を見直すなどという気配もない。  しかし、リュシアンがいま感じている絶望とこの頬を流れる涙は、それとはまた別の、心のうちのまったく違う場所から湧いてくるようだった。  リュシアンと、血を分けた兄弟――フランソワの母の凄惨な運命。  唯一謎となっていた真実が明かされたとき、リュシアンが真っ先に思ったのは、ド・アルマンの心を少しずつ蝕んだであろう彼の苦難に満ちた日々だ。  本来ならなに不自由なく、おそらくこの国においてもっとも華やかな生を送るはずであったひとりの人間が、ただその悲運の近くにあったというだけで、母の愛も、兄と慕う人も、そしておそらくは父親の同情も……すべてを奪われていたのだ。  その姿は幼き日のテオドールと重なる。  彼もまた母を失い、心に深い傷を負った。  だが。 「テオドール、そして私も……出会って、互いに生きる意味を得ました。しかし……」 「たしかにフランソワを失ったとき、私の絶望は深かった。父を恨み、ともに悲しんでくれない死んでしまった母を恨んだ。その後も私は失い続けた。失うだけだよ、私の人生は。フランソワもそうだ。彼はダルマンで過ごす最後の日、一度も泣かなかった。彼も私と同じ……いいや、もっと呪われた運命を背負っていたというのにね」 「でも、いまはあなたにも家族がいるでしょう」 「クラリスは……妻はたしかに私の家族だけれど、別に互いを愛して結ばれたわけではない。私たちは――そう、同志のようなものと言えばいいかな」  お互い目的は違うけれど、とド・アルマンは肩を竦めた。 「彼女はよく助けてくれる。例えば、これは」  そう言って男が手にとったのは、傍らに置いたあの赤い包みだ。  一抱えほどの天鵞絨の包みは、ちょうど丸めた書状がひとつ入るほどの大きさである。 「陛下の名の入ったフランソワ宛ての書状だ。しかし、正式なものじゃない。クラリスは王宮で育ったが、彼女が小さいころに絵を教えていた宮廷画家がいてね。そのつてを頼って、まだ名は売れていないが腕のいい絵描きを探したんだ。我が家は父がヴィルマーユへ携えた本物の書状があるから、それをもとに大枚を叩いて一枚、それらしいものをつくってもらった」  しかし期待していた以上の出来だったと、ド・アルマンはまだインクの色も生々しい上等の巻紙をリュシアンの前に広げて見せる。 「これほどの腕なら、たとえ肖像画でも良いものが描けそうだと思わないかい? フランソワが戻ったあかつきには、ぜひとも彼を最初の肖像画家にしようと思っていたところだ。彼なら、フランソワの美しさを余すところなく後世に伝えてくれることだろう」  高い鼻梁が落とした影のなか、男の頬が興奮に染まる。 「やめてください」  絡みつくような粘ついた視線を、リュシアンは目を瞑って振り払った。 「やめろとは?」 「そうやって私に殿下のお姿を重ねることを。ご自分で気づかないのですか? さきほどからあなたの目は、私の背後にフロリアン殿下を見ている。はっきり言って不愉快です」  時折、愛おしげな表情を見せるのも、ふいに弱った姿を見せるのも。  はじめは男がリュシアンに何らかの情を感じているのだと思ったが、計画のすべてを知ったあとでは、それはまったくの勘違いだとわかった。  男は夢想しているのだ。  リュシアンが得た安息を、今度は自分とフランソワが手に入れる瞬間を。  そしてそれがすぐ近くまで迫っていることを、男はすでに確信している。 「そう……それは意識していなかった。謝るよ。もうすぐそこに彼が座るのだと思うと、嬉しくてたまらないんだ」  すまない、と詫びるわりには些かも悪びれない様子で、ド・アルマンは赤い包みをしまう。

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