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Ⅺ-2
「ダルマンは陛下の右腕――そう聞いていましたが、その書状が偽物であるということは、今回のことは陛下のあずかり知らぬところ、いうことでしょう。お父上がご懸念なさっていたとおり、当代のダルマン当主は王を裏切ったのですね」
皮肉を込めて言うものの、男は不快さを示すどころか、よけいに熱を上げたようだった。
「とんでもない。ダルマンは常に〝キルレリアの賢王〟とともにあるさ」
まるで「それこそを伝えたかったのだ」と言わんばかりに、満足そうな息を吐く。
「ダルマンが……私が仕えるのはあくまで〝賢王〟。それに値する御方に、ということだ」
――やはり。
ようやくすべてが繋がった。
人の愛より大切なもの。
この国に真の平和を取り戻すすべ。
男の掲げる理想と、それにともなう大きな犠牲は、すべてこのためにあったのだ。
「ジャン・グレゴワール・ド・アルマン。あなたは陛下を討つつもりなのですか。フロリアン殿下を次の王として、この国を新しく作り直すために」
手記には『〝キルレリアの賢王〟はダルマンが守ってきた』とある。
それが真実ならば、これまで語られてきた歴代の王の偉業は、そのすべてが王を支える家臣たちによって作られたものということ。
『その性、清廉なり』と讃えられる当代の王にいたっては、自国に立ち寄った商人の娘を拐かしたばかりか、身籠もらせ、その子を自国を守るための生け贄とした。
ダルマンや、王に近しい臣下はアーキア以来続く〝賢王〟の称号を守るため、様々手を尽くしてきたにちがいない。
それが、ついに決壊した。
「あなたは、お父上がけっして選ぼうとしなかった道を選んでしまった。大切な者を奪われたその恨みが、あなたに血の道を選ばせた」
事の恐ろしさが、しんしんと身に沁みる。
キルレリアには、すでに王位継承権をもつ4人の御子がいる。彼らを差し置いて混血で、しかも何の後ろ盾ももたない王子が、権威に凝り固まった他の臣下たちの信を得るとは到底思えない。
無理に玉座を奪おうとすれば、一体どれほどの血が流れることになるか。
〝真の平和〟を謳っておきながら、その実、ただの身勝手な妄想なのではないか。
「まったく同じことを、キミの主にも言われたよ」
リュシアンの批難は一笑に付された。
自らの正義を微塵も疑わない逆賊は、ここにきて悠然たる姿勢を崩したりはしない。
「なにも4人の殿下が、誰ひとり次の王にふさわしくないとは言わない。だがそこにあるとおり、いまの王室は腐りきっている。賢王であるどころか、何代遡ったところで、まともな王さえいないんだ。ダルマンは、それを目の当たりにしてきた。玉座の一番近くでね。それならば、賢王を支えるダルマンが、もっとも王にふさわしいと思う御方を玉座に据えたいと思うのは当然のことだろう?」
「たとえそれが正しいことであったとしても、あなたに国の行く末を決める権利はない」
4人もの人間の、いや、彼らを守る人々の命を奪う権利がどこにある。
身勝手な言い分に対する怒りが、リュシアンの不安を押し流していく。
アーナヴ、イェマ、そして彼らの仲間の顔が浮かぶ。
彼らは自分たちを救ってくれた主を、手放しで信頼している。
それともリュシアンが知らないだけで、彼らもこの男の企てに賛同しているというのか。
〝この性奴隷!〟
投げつけられた罵倒が胸を抉った。
――こんなことをして何になる。
これではまた誰かが傷つき、いつか恨みが恨みを呼ぶだけだ。
「本来命を賭して仕えるべき方々を裏切り、己の意のままに国を動かそうとすることのどこが正義ですか!」
するどい音が、荒れ狂う車輪の音を掻き消して車内に谺した。
男の頬をしたたかに撲った分厚い手記は、転がるように足元の暗闇へと消える。
「正義、ね」
男の唇は切れ、血が滲んでいる。だがリュシアンの瞳は、分厚い背表紙が薄灰色の双眸に迫った瞬間、男がそれを避けようとしなかったばかりか、瞼ひとつ動かさなかったのを捉えていた。
――なんだ、この男は。
ぞっとして思わず身を引いてしまいそうになるのを、これ以上退きようのない固い座面が妨げた。
「一度は同じ選択をしたさ。先代だって。だが、それはできなかっただけだ」
はらりと頬に落ちた長髪の隙間から、男の低い声が聞こえる。
その声は相変わらず嗤っている。
「父はフランソワを愛していた。我が子のように憐れみ、慈しんでいたんだ。だが、それでも彼はこの国を守らなければならなかった。悩み、悩み抜いた末……父はフランソワの存在へは頼らずに、いまと同じことを成そうとした」
「どうやって」
「いるじゃないか、私の目の前に。王室の醜さから隔絶された世界で育った、しかし、王となる資格をもつ人間が」
予想外の言葉に驚きを隠せないでいると、ド・アルマンは遠く小窓の外に浮かぶ月を見上げて言った。
「こんな月の夜、父が何度か邸を空けることがあった。仮面を着け、闇色のマントを羽織り、どこからともなく現れる一頭曳きの小さな馬車に乗り込む。そしてそんな夜、父は明け方まで戻ることはなかった」
「仮面? それでは――」
月の夜。マント姿の男たち。
そして、素顔を覆い隠す、白い仮面。
脳裏に蘇る陵辱の夜の景色に、リュシアンはきつく目を閉じる。
まさか、マリユスによって集められた男たちのなかに、先代ダルマン公がいたというのか。
「父の死後、私は書斎で破られた手記の数枚を見つけた。そこには父がフランソワを失ったことをきっかけに、キミと、キミの母上の行方を捜し始めたこと、そして母親の死と、キミがクレールに拾われたことが書かれていたよ。父はその後、マリユス・ド・クレールに近づいたようだ。そのとき持ちかけられたのが、あの〝淫らな取引〟だったようだ。父はキミに会うため、マリユスの話に乗った。だがひとつ……彼の誇りのために言っておくが、父は他の男たちのようにキミを辱めたことはなかったらしい」
言われてみれば、リュシアンにも思い当たるふしがある。
自分を犯す男たちのなかに、狂宴のはじめから終わりまで、けっして男たちの輪に加わることのなかった人物がひとりだけいた。
ほかの男と同じように仮面を被り素性を隠していながら、彼はじっと壁に寄りかかり、ことの始終を観察していた。その異様さを――その場にあっては、それはとても異様であったことを――いまでもぼんやり覚えている。
当時、男は〝ある種特殊な性癖〟の持ち主なのだと思っていた。一度などは彼が満足するようにと、わざと目の前で痴態を繰り広げてみせたこともある。
自分の性に対する奔放さが、ひいてはクレールのためになるのだと精一杯務めていたころのことだ。
どんな誹りを受けようと変わらず過去を悔やむことなどないが、にわかに鮮明になった記憶のなかの男が目の前の青年の父親だと思うと、さすがに羞恥が勝る。
俯いて目を逸らしたのを、ド・アルマンはリュシアンが過去のおこないを恥じているものと思ったらしい。
男は嘲るように鼻を鳴らす。
「父はキミに期待していたらしい。なにせ、あの心の清い母親から生まれた子だからね。育った場所は違っても、フランソワの片割れ、きっと兄弟おなじように強く、まっすぐ育ってくれているにちがいないと、そう信じてキミに我が国の命運を託そうとした。だが……」
あのころのリュシアンは、すべてを諦めていたのだ。
大切なテオドールはまだ幼く、あまりに無力。自分を生かしたのはマリユスだけと固く信じていた。
それを、まさかもうひとり、こちらを救おうとする者が別にあったとは。
「だが、あのとき父が見たのは、猥りがましく男を咥え込むキミの姿だった。10年もの歳月を我が子のように育てたフランソワと同じ顔の青年……それが男に跨がり、腰を振る様を見せつけられた父の絶望は、一体どれほどのものだったと思う」
リュシアンの窮状を記した記述は、一度は手記に加えられたものの、無残に破かれ、書斎の古い文箱に隠されていたという。
それはダルマン公の強い葛藤を思わせた。
「結局、父はキミを救い出せなかった。マリユス・ド・クレールの罪を暴けば、いずれ陛下にもキミの素性が知れる。立場を考えた父は、せめてもの償いとしてキミにクレールの罪過を語って聞かせ、いつかキミが自分の力であの地獄から抜け出してくれるよう祈った」
では、〝呪い〟のはじまりを自分に教えたのは、ダルマン公であったのか。
国家の行く末を愁い、子の生還を祈った男が最後に望んだのは、もうひとりの犠牲者を救うことだった。
「だけど、父の願いは天に通じなかったようだ。キミの心は芯までクレールに侵されてしまった。いまのキミを見ればよくわかる」
リュシアンは歯噛みした。
あのとき唯一自分に手を出さなかった男の、仮面の奥に光る慈しみの涙に気づいていれば。
少なくとも、これから起こる惨劇は防ぐことができたのかもしれない。
だが、それでは自分とテオドールとは、一生涯心を通わせることはできなかった。
はたして、それがリュシアンにとって望ましい世界なのだろうか。
「……だから、私も彼らのように罰しようというのですか。あなたのお父上の期待に答えられず、民の苦しみを長引かせた罪を私に負わせようと?」
「キミに償いの機会をあげようと言っているんだよ。そうすればキミの魂は救われ、罪のない人々の命も救われる。これ以上喜ばしいことはないだろう」
「……そんなこと、間違っている」
男の言い分は多少なりとも理解できる。
だが、いまの自分は――テオドールに愛された自分はどうすればいい。
少し前まで当たり前のようにあった穏やかな日々を、忘れろというのか。
彼を愛し、愛されたあの夢のような日々を捨て、自らを犠牲にして苦しむ人々を救わなくてはならないのか。
「これが私の〝力〟ですか、母上……?」
リュシアンは独りごちる。
これが母の言う、持つべき者の力だというのか。果たすべき責務か。
なぜこうなった。
この男は、なぜここまで執拗にクレールと自分とを追い詰めようとする。
「マリユス様のおこないも、クレールの長が起こした罪も、到底許されるものではありません。ですが……あなたのお父上は一度考えを改めたのでしょう? 次代の王、次代のダルマン公であるあなたに次の未来を託した。それを、なぜあなたは信じようとしないのです。なぜ我々だけをこんなにも……――っ!」
そのとき、ふいに窓の外の月が揺らいだ。
車が大きく跳ねて停まり、馬の嘶きと男たちの怒声が飛び交う。身体が大きく前のめり、思わず目の前の男の胸に手をついた。
御者台からは、男たちがなにか激しく遣り合っている声が聞こえる。
盗賊――思い至って身が竦む。深夜の密かな行軍を妨げる理由は、それ以外には考えられない。
「これを被って。大人しくしていなさい」
だがこんなときも、ド・アルマンは冷静だった。
近くにあった唾の拾い帽子をリュシアンに被せると、彼は自ら扉を開き、車を降りる。その足取りにいっさいの恐れはない。
車内に差し込む松明の灯りは激しく揺らぎ、扉を背に庇うように塞ぐ男の身体を黒々と浮かび上がらせた。
「キミたちはキルレリアの兵か。なぜこのようなところにいる?」
兵。リュシアンは息を詰め、外の音に耳を集中する。
眩しくて外の様子を窺うことはできないが、兵というからには、服装か、それなりに身分をあきらにする証があるのだろう。
どうやらすぐさま命を取られることはなさそうだと、リュシアンはとりあえず安堵した。
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